絵を売る

どうもこんにちはこんばんは近藤です。

f:id:Kond:20200518190111p:plain 

一昨日の記事で「フリマテン」という、

kondo.hateblo.jp

美術作品を路上で展示販売する企画について書きましたが、今日はそのきっかけというか、なぜそういうことをやるに至ったのかについて書きたいと思います。

 

「フリマテン」を始める数ヶ月前。当時は大学生だったんですが、僕は絵を描くために、それで飯を食うために大真面目に学校に通っていたわけです。

だからなるべく制作することに時間を割きたい。放課後はもちろん、家に帰ってからもそう。寝るスペースを極限まで狭めて毎日身体を折りたたみながら、部屋に広げたブルーシートの上に並ぶ絵を眺めていた。

 

しかし母親と男兄弟の3人家族、団地に住んでいた我が家の家計はお世辞にも余裕があるとは言えず、生活費を稼ぐためバイトは必須だった。(それを承知で大学に行く選択をしたのは自分だし、金銭的には困窮し続けてた生活だけど今の今まで育ててくれた母親には感謝してもしきれないくらい。自分のしてきたことを親の視点から思い返したときに、"子育て"という想像を絶する体験と、そのあまりの尊さに恐怖すら覚えるほど。そういう意味でいまだに女性に対しては尊敬するし、コンプレックスもある。)

 

時間と日にちに融通が効くので派遣に登録し、イベントの設営や運営、引越しのバイトなどをやっていた。短期的で肉体労働、だけど日給は高い。しばらくはそれで問題なかった。

 

でも日に日に画材やらの出費はかさむ。展示をやるとなったらある程度の日数を確保しなければならない。苦手な人付き合いも人脈を広げるためだと気持ちを切り替えて、オープニングパーティーやらワークショップやらにも参加した。それらすべてに大小あるがお金がかかる。

 

そんな労働と学業と制作のサイクルに疲れがたまってきたある日、バイトの給料だけでは生活がまわらなくなっていた。

 

諸々の支払いが滞っていたのだ。あるときから制作に対する比重が大きくなっていき、それ以外のことがうやむやになっていた。そのツケがのしかかっていた。もちろん自業自得。同じ学生でも頑張って学業とバイトの両立をしっかりやっている奴もいる。自分はその努力を怠けていた。

 

どうしようか考えた。

クレジットカードは今年30になる年でやっと作ったくらい現金一択で過ごしてきた。

ただでさえ家のことで手一杯な母親にはもちろん頼めない、給料の前借りも派遣だからできなかった。どうしよう、どうしよう、やっぱり絵を描いてどうこうしようという何の保証もない道を選択したのは間違いだったか。

同じ造形学部でも周りはみな、カリキュラムに組んである教員免許の試験を受けていた。自分は初めから絵描きになるんだ!とまるでジャンプ主人公のような宣言ぶりで信じて疑わずに大学に入ったから、それ以外のことは全部パスしていた。今更戻るにも戻れない、目の前には絵しかない、、、

 

絵しかない、、、この絵、、この絵、、、、

 

 

 

この絵を売るしかない。

いやなんでそうなるのと思う人もいるかもしれないけど、更にそのあとの行動のほうがつっこみどころで。

 

SM〜3号くらいの小さいキャンバスに描いた絵や、紙に描いたドローイング、それらをキャリーケースになるべく多く入るように整理して詰め、行商することにした。

行商とは、店舗をもたずに一軒一軒を商品を携えながら訪ね歩くこと。今でいう営業や宗教の勧誘なんかもその中に属すると思う。

 

まとにかくそれしか選択肢がないと当時の自分は思い、気持ちを奮い立たせたんでしょう。まずは自分の住んでた団地のドアを一軒一軒叩いていった。

もちろんそんな見ず知らずの男がいきなりドア開けたら立っていて「こんにちは。いきなりすみません、僕は絵を描いている近藤大輔と申します。失礼を承知で、あの、もしお時間よろしければ描いた絵を見ていただけませんか?」なんて言ったきたら怖い。

あたりまえに怖い。至極当然の反応として向こうは怯えた表情になるし、上記の説明を言い終わる前に「ごめんなさい」と言ってドアを閉じてしまうのもなんら想像に難くない。こわい。

 

そしてさすがにそれが、赤の他人の日常にとって狂気であることは自分でも理解していた。でもそういうことをしてまで、作品をお金に換えることでしか現状は打破できないと思い込むまでに思い詰めていたのだと、今の自分は思う。

 

 

完敗だった。キャリーケースを開けることすら叶わなかった。

当然だろと、なんせこわいんだから。

 

メンタルも相当やられた。作品を見てもらえないことよりも、面と向かってみた自分に対する恐怖やら疑いやらの眼差しが相当堪えた。が、これも当然。

 

歩きながら「営業職ってすげーんだな」なんてこの時だけ心の中で尊敬した。

 

 

 

 

数時間そんなこんなでウロウロしていたが、このままでは体力と精神を削られていくだけだと思い、計画変更、知り合いの所へ行くことにした。

知り合いの所といってもお店。みなそれぞれ営業をしているところにキャリーケースに絵を詰めた奴が自信なさげに行商してくる。大変迷惑なことをしていたものだと反省する。

 

何人かの知り合いの所にお邪魔し、事情を説明して作品を見てもらった。

たまたま店に居合わせた人も手に取ってくれたりして、いくつか作品を買ってもらうこともあって、それは素直に嬉しかった。

けど、その見せていく中である人から言われた言葉が記憶に残っている。

作品を、その人の店の机の上に広げさせてもらったときに、「近藤くん。直接作品を見せに来るその行動力は買うけど、こんな脈絡もなく雑然と置かれた作品をこっちはどう見たらいいかわからない。そのことにまでアーティストなら考えないと作品がかわいそうだよ。」と。

 

言われればその通りだってことに気がつくのはいつも、誰かの言葉があってからだ。

そんな足元のことがわからなくなってしまう。帰り道はもう暗くなっていた。

 

歩き回った成果としていくばくかのお金を得た。そのお金で境地だと思っていた事態はありがたいことに抜け出すことができた。それはそれでよかったと思えた。

 

でももっとやり方を考えたい、成果としてみれば同じにみえるものでも関わる人が楽しめるような形に。そうして”作品を展示し、かつ買うこともできる場”を設けようと思ってたどり着いたのが「フリマテン」という企画であり、場所だった。

まだメルカリやBASE、SUZURIといったクリエイターが販売する場が設けられていなかった頃(デザフェスとかマルシェとか、タグボートもそうか、ずっと前からあったけど、もっと個人的な規模で人との距離が近いものはあまりなかったと思う)、この場が同じような問題意識をもつ作家の何か手助け、というか集まれる所になれるといいなと思っていた。

誰よりも自分がそれを必要としていた。

 

 

 

 

「フリマテン」は2014年の一年間だけしか続かなかった。

その理由の一つに、自分が大学を卒業するタイミングだったてのがある。静岡県から出たいという気持ちが徐々に膨らんでいた頃だった。

もしかしたらあのまま続けていても先細って自然消滅、結果それが早いか遅いかだけの違いだったのかもしれない。勝手な結論付けだけど。

 

 

それで6年経って今。

コロナと芸術の相性はいいような悪いような。 

それぞれが知恵をしぼって販路を選び、その発表の仕方やタイミングを計らい現状を生き抜こうとしている。

こぞって「なにかせねば!」という焦燥感に駆られているようにも感じるけど、そんな横槍は野暮だ。自分だってLINEスタンプ販売したりギター弾き始めたり筋トレしたり、全然新しくもなく芸術らしくもないけど側から見れば同じように「なにかせねば!」のグループに配置されているのかもしれないわけだし。

 

楽しいを継続していきたい。

そう考えるようになったのはちょうど去年の終わりから今年に入るくらいの間。

世界情勢とかじゃない、自己情勢を探っていきたい。

自分の絵はそことつながっている。