こんにちはこんばんは。近藤です。
先週の金曜日に一斉に送った「ハローブック」が徐々に届いているようで、その連絡を受けて一安心しています。どんな絵と言葉が返ってくるのか楽しみだな。
とりあえず1回目は5人の人に送ったのだけど、それが全部手元に戻ってきてフィードバックできたら次の2回目送る人へ連絡しよう。そうやって一対一の関係が積み重なっていくとまた違う面白さが見えてきそう。
物としては紙一枚に絵と言葉が描いてあるだけで、しかも挨拶程度のラフな絵だから、そこまで大事に大事にって感じでもない。そりゃもちろん雑に扱うつもりもないけど、やりとりする人には気軽に接して欲しいなと思ってる。
これは美術的な要素も借りつつ、あくまでそれは往復書簡であり、挨拶であって。
人と上手に関わる術をもたない自分に何があるのか考えた時、そこに絵を一枚間に挟むだけで交わせる言葉があるなと思った。
よく友達と話している時も、そこにスケッチブックを広げて何か描きながら手を動かしながらの方が、かえって相手の話に集中できるってことがよくあって。
目線もそうで、人の目を見て話すことは大事で、それは「ちゃんとあなたに興味をもって聞いています」の合図として必要なのは分かるのだけど、自分としてはむしろ逸らしていないと相手の話が入ってこなくて。入ってこないだけじゃなく、自分の言葉も外へ出ていかなくなってしまうから、それが失礼にならない相手だなと判断した場合に限り、あまり顔を見ないで話をしてる。
あとヘタに相手を見ながら話をしていると、表情や仕草のほうが気になってしまって言葉が消化できないまま空返事をしてしまって、その瞬間(しまった)と思って自分の中で反省時間モードに突入してしまうことが多々ある。
だから、目線は時々合わせるくらいがいい。相手の話のリズムの隙間、もしくは会話の中でちゃんと感情が能動的に行き来しているなと感じた時に、その確認の意も込めて目を見る。それは答え合わせのようでもある。「俺はこう受け取ってるけど大丈夫だよね?」とか「伝え方間違ってないかな」とか。
まあそんなのは対話、および会話の基礎中の基礎なことで、こんな文章にすることもないんだけど、人によって少しずつ差異は確実にあるから、”自分の場合は”ということで書きました。
人に伝える
という言葉で今ふっと思い浮かんだ作品があって。
大西清澄 「涛の塔(なみのとう)」
静岡県立美術館のプロムナードにある彫刻作品なんだけど、まだ静岡に住んでいた頃、美術館に行く度に立ち止まって見てしまうほど好きな、、というか不思議な魅力のある作品で。
湾曲するステンレスの鏡面に周囲の景色が映る。けれどそれは湾曲した表面に沿っているから景色は歪んでいて、見ようによっては抽象画のようにもなっている。こう、擬音にすると「グニャ〜」という感じ。
この作品に対する作者の意図は定かじゃない(美術館HPには【勇気・情熱・ロマンといった男性的意志の象徴としての「崖」を主題とした】と学芸員による解説で書かれてあった。)けど、僕はこれは人と人とのコミュニケーションの象徴だなと感じていて。
ある場所において、存在する情報で構成された景色(写真の場合でいうと空や木や柵や鑑賞者といったもの)が、それを集約する物/者によって形を変えて他者へと伝わっていく。というようなことが、特に近頃のコミュニケーションをめぐる状況そのままだなと。
そんなことを考えながら、でもあの頃、目の前にあった作品はとても魅力的で。
この合致しないギャップがもたらす感情の揺らぎが芸術のもつ特性なのかも。
いやー文がまとまらないんだけど、いい作品だー。
自分もなんだかんだ10年絵を描き続けてきたわけだから、それを糧に今度はこの先10年どうしていくのか考えていかないとな。
おわり。夕飯たべよ。