何を言いたいかというと特に何か言いたいわけでもない

墓参りに行ってきた。

静岡の田舎に母方の祖父と祖母は眠っている。

 

早くもアクセル全開の花粉が風に舞っている日曜の正午、しんどい頭と鼻をすすりながら寺まで歩く。くしゃみするほど憂鬱になっていくのだけど、それを紛らわせるのは山!山!山!そして川!の風景。なんてのどかなんだろう。

 

道すがら思い出すのは小学生の頃、その地域一帯で月1で開催されていた朝市が楽しみで、とりわけ親戚が作っていたよもぎ大判焼き目当てに毎回売り場まで駆けていた。

狭い道に明確な境は無くて、車と歩行者は譲り合いながら進む。側には小さな川が流れていて、それをずっと上流の方まで辿っていくと大鈩不動尊(おおだたらふどうそん)に着く。

そんなに広くない場所に300以上の地蔵さんが点在していて、その間をチョロチョロと水が流れる。薄暗くて、子供には少し不気味な場所だった。

 

ちなみに、大鈩不動尊という名前が変換で出てこなかったのでネットで調べていたら、『静岡の森に息づくジブリ!』という題でまとめ記事になってて驚いた。しかも掲載されてる写真が実際の風景を知っている人間からすると、明らかに、いやむしろ大袈裟に彩度高めの演出されていて「なるほどな〜」と思った。

 

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大鈩MAP

 

 

 とまあだいぶ話が逸れたけど、お墓があるのはその大鈩不動尊の入口にある誓願寺というところ。

山門から望む参道とその奥にある本堂、それだけでなんだか清々しい気持ちになり、今までかいていた汗もすーっと引いていくようだった。

人気はなく静かで、ただ強風に巻き上げられた枯葉がそこかしこに落ちていた。

枯葉はお墓の周りにも散乱していて、供えられた花も萎んでいたし、水は濁っていて、蜘蛛が巣をつくっていた。ザ・墓の光景なんだけど、久しぶりに見るとなんだか可哀想に思えて、せっかくだし掃除をすることにした。(当たり前)

 

まず手桶に水を汲み、雑巾をしぼって墓石を拭いていく。ぱっと見た感じでは汚れているように見えなかったけど、拭いてみるとすぐに雑巾が真っ黒になった。

ただの石なのに、拭く前と後では違う表情のように感じる不思議。

花立をスポンジで洗って新しい花に替え、枯葉を取り除き、いよいよ線香をあげる。

寺の中にある売店で買った50円のマッチ棒。いざ線香に火を付けようとするも、風が強くてなかなかマッチ棒から移ってくれない。ひゅっと白い煙をあげてすぐに消えてしまう。そうして付けては消えを繰り返し、結局10本あったマッチ棒を全部使って、成功したのはたったの4本。

火もまともに付けられないのか俺は!と少し落ち込み、束になった線香は買った時と同じ状態で右手に残った。(あとで思ったけど、一度にそんな数をあげる必要ないんだよねそもそも)。

 

 

すべて終わり、手を合わせる。

祈るでも願うでもなく、報告するでもない。ただ両の手を合わせて目をつむり静かにする。それだけ。 

思えば父方の祖父母が亡くなった時も、家にある仏壇に毎朝線香をあげて手を合わせていた。

それが何になるのか、どういう意味があるのか、まだよく知らない子供の頃。

でも今考えると、きっとそれが何にもならないから、どういう意味かさえ知らなかったから、続けていたのだと思う。

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帰り道、テニスコートで談話しながら体を動かしている年配の人たちを見た。

丸子川という小さな川の側にある、地元の人が使っているスポーツ広場だ。

雰囲気から試合が控えているという感じはなく、健康の為、もしくは友人と会う口実として、その人たちは場を必要としているように感じた。それが微笑ましくもあり、美しいなとも思った。

でも、そうした何気ない風景に思いを巡らせることができたのは、いつからかその場所と自分との関係が希薄になっていたことの裏返しでもあって、単に温かなエピソードというところには着地できなかった。

日中のくしゃみがまた、ぶりかえしてきた。