あの日にかえる

27才の時に施設に入ってから20年もの間、ずっと肌身離さず持ち続けていた写真。

そこには両親の姿や、両親と行った旅行先の景色なんかが写っている。

朝起きた時、夕食後のほっと一息した時など、ずっとその写真を触って見つめながら楽しそうに過ごしていたらしい。ベットの上、クローゼット、箱の中など、何度も写真の置く場所を移動させているうちに四隅はボロボロになり、色も褪せていく。箱の中に入れてある時は、上下にかき混ぜながらその時見たい写真を探すので傷みは増していく。それでも毎日毎日手にとって、飽きるまで触って、思い出に浸ってたのだと思う。

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1970年生まれ。

杉浦篤さんの写真を見た、昨日。

3331 Arts Chiyodaにて開催されていた展示『ポコラート世界展「偶然と、必然と、」』を鑑賞した。https://www.3331.jp/schedule/005367.html

企画概要や出展者はURL先で見てほしいのだけど、とにかく杉浦さんの写真が印象的だった。

 

その、まず全体を通して言えるのは、「そうせざるをえない」という根源的な人間の欲望や、それに準じた感情や行動の軌跡で。それぞれの環境ゆえに生まれてくる色や形、やり方、作り方、見せ方あるのだけど、でもその中で杉浦さんの写真が唯一だったのは、”何かを作ろうとしていないこと”という点で、他にはない光を放っていた。

だからそもそも作品ではなくて(とすれば他の人も概ね”作品化”の意識はないままにやっていると思うのだけど)、言ってしまえば単なるモノの経年変化であって、長く生活していれば誰しもがお目にかかる現象であり、古い写真を長年手元に取っておくことも特別珍しいことではない。

 

なのに胸を打つ。感情がグググっと湧き上がってくる。

それは、アウトサイダーアートの括りに潜む、純粋無垢な物語を無意識的に期待しながら観ているからかもしれないし、余白や照明による演出に、まんまとしてやられた感情なだけかもしれない。

けれどその可能性を差し引いても余りある、実物の存在感と会場出た後も続く余韻。

やっぱりそれは一人の手の中で在り続けたからこその痕跡と、その時間があるからで。

アンティークでもないし、災害によって汚れたわけでもない、ご利益がある置物みたいに皆の手で愛でられたものでもない、個人から個人にむけられた愛撫。

 

『愛撫とは、 優しく、あるいは愛情をこめて、触れたり、さすったりすること。 なでさすってかわいがること。 なでんばかりにかわいがること。』Wikipedia

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この気持ちは一体なんだろうなーと整理つかずに今も書きながら考えている。

思いつくだけの言葉で表そうとするも、かえって文章がとっ散らかるばかりでままならない。なのでここら辺で。記録。