本に囲まれることは

また今日も本を買ってしまった。

 

何気なく寄り道のつもりが、ふらーっと棚を眺めているうちについつい手が伸びてしまい、ついにはそのままレジまで持っていってしまう。出掛けた時よりいくらか重くなったバッグを肩にかけて、楽しみ反面、またこれで棚に入りきれない本が積まれていくのかと、ほとほと断捨離とは縁がない性格だなと思ったりもする。

 

今回買ったのは谷川俊太郎「コカコーラ・レッスン」、杉村恒「明治を伝えた手」、「ザ・サイエンスヴィジュアルシリーズ 光」の三冊。

 

 

谷川さんの詩集は、以前この記事でも散々紹介したように地道に集めていて。

特にこの「コカコーラ・レッスン」は、出版されたのが1980年なのだけど、谷川さん作品の中でいうと中期辺りで、一番脂がのっているんじゃないかってくらい言葉の使い方が面白い。一読するだけでは意味わからん哲学や宇宙観、クラシックにも造詣が深いからそこらへんの用語も混ざってきて、現代詩的振る舞いも多分に見せてくる。それでいてわかりやすいユーモアや、日常のささいな描写が簡潔に描かれてもいて、その言葉同士の絶妙な距離感とか組み合わせが、読んでいて刺激にあふれている。

思潮社の本の装幀も毎度素晴らしいので、棚に入れて背を眺めているだけでも幸せを感じることができる。

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「明治を伝えた手」は、相撲字や木版彫師といった伝統芸の職人を紹介する本で、年々後継する人がいなくなり絶滅危惧になりつつあるモノやコト、その制作する現場の様子を写真付きで掲載している。

民芸や工芸への興味があるのと、そもそも母方の祖父母の家で暮らしていた頃は、よく祖父が離れで竹とんぼや凧などを作っているのを身近にしていたのもあると思う。

時々「お前も作ってみろ」なんて呼ばれて、言われるがままに竹を削ったり組み合わせたりしていたけど、正直あの頃はピンときていなかった。

そんなことが今更になり、ようやっとその魅力に気づき始めるなんて、なんて勝手なものだろうと思ったりする。直接伝えられる時に伝えておけばよかったことが、歳をとればとるほど増えていくってのはどうにも慣れない。まあ、そんなことも考えながら選んだ本。

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「ザ・サイエンスヴィジュアルシリーズ」は、電気、エネルギー、磁気、といったように毎回一つのテーマに絞り、それに対して多角的に画像を用いてわかりやすく解説してくれる図鑑的な本で。こういう化学や物理学系の本は条件反射的に手に取ってしまう。文章をちゃんと読まなくても、掲載している色んな図を見ているだけで楽しい気分になる。視覚トリックや心理学の本も同じ理由で好きだ。

反応と、その仕組みに興味があるのかも。

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本は、レコードやカセットみたいに、その魅力が度々見直され、ファッションアイテムのように取り扱われることはない。雑誌で定期的に特集は組まれるし、コロナ時代にあってその需要は高まっているらしい。けれど、物としての重さや、場所をとることから決してスマートではないし、電子書籍化が進むことで「いずれ無くなるメディア」といまだ言われ続けている。でもそんな存在ゆえに愛着が湧くし、こんなに情報と感情が一体化した物体、他にないぞ、とも思う。

 

新しく本を買って、家の棚に入れた瞬間に棚がそれまでと違う表情をみせる。本を入れ替えて整理すると部屋全体の雰囲気も変わるし、その時々の自分のテンションを反映する鏡にもなる。

バッグに入れて持ち歩けば、そのうちに角が潰れたり、表面に傷がついたりするのもいい。わざとそうする必要はないけれど、汚れれば汚れるだけ、本はその人にとっての本となって輝く。近年は転売も視野に入れて購入する人が増えたから、状態の良い本が多く、それはある意味では良いことなんだろうけど、でもそれ故に、誰のものでもないまま、市場を転々としていくだけの存在になってしまうつまらなさもあると思う。

 

 

こうして書いていると、また本が欲しくなってくる。

古本屋を覗けば店主のポリシーが感じられるし、思わぬ出会いが自分の好みを拡張してくれることだってある。新刊書店には時代が必要としている言葉や、書店員のしたたかな販売戦略が見え隠れしている。どちらも楽しい。

読まない本がまた積まれていく。

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(これは昔働いていた古本屋で撮った写真)