11月12日火曜日
駅前の本屋に行った。
いつものようになんとなく、棚を順番に見ていく。店内を一周してレジの近く、棚にあった谷川俊太郎と伊藤比呂美の対談集「ららら星のかなた」がふと気になって手に取り、ぱらぱらとページをめくる。前に来たときもこの本手に取ったなー。でも詩集じゃないもんなー。なんてことを思いながら文字を追う。簡単な内容としては、60代の伊藤比呂美さんが90歳を迎えた谷川俊太郎さんに会いに行き、人生について、詩について、質問を介してお互いのこれまでとこれからを交わすというもの。
谷川さん単著の本(詩集、散文、エッセイ)は好きなのだけど、誰かとコラボした本はあまり好きじゃなく(谷川さんがホストになって質問する系のやつは相手の大喜利感に冷めちゃうし、絵本もたくさんあるけど、その媒体のイメージそのまんま、ピュア感で対抗しようとしてる作家の作品に萎えたりして)立ち読みはするけど、購入するまでは中々ならない。けれどなんでかその日はこの本を「買おう」と思った。
口語体なので読みやすく、余計な企画めいた装飾がないのもそうさせた理由なのかもしれない。ページの初めのほうで、谷川さんの日々の食事について話している箇所があって、「一日一食。玄米と味噌汁と、あとはセブンイレブンでおかずを買ってくる」と話していて、その軽快さに背中を押されたのかもしれない。
帰り道。家の本棚にある谷川俊太郎コーナーにはもうどのくらい本があるんだろう。たぶん100冊は超えたかもなー。なんてことを考えながら歩く。そうした誰に誇示するでもない密やかな自慢を反芻しながら、90歳過ぎてるってことは谷川さんもいつか、しかもそう遠くない未来に亡くなるんだよなーとか考えてすぐ「不謹慎か」と自分に言い聞かす。風は穏やか。
16年前
図書館で谷川さんの詩集と出会った。
ある日、いつもは通りもしない「哲学・思想」の棚を背伸び気分で眺めていた。吉本隆昭、柳田國男、図書館の隅っこ。ただでさえ静かな場所の中で、人気のない、とりわけ静まりかえった漢字だらけの背表紙。こういうのをちゃんと読めるようになったら賢くなれるのかな、なんて思いながら目線をスライドしていくと、下のほうに「詩集」という棚差しプレート。
宮沢賢治、中原昌也、金子みすゞ、教科書で見たような名前。ぱらぱらとページをめくってみたりしながら、へえーとかふーんとか心の中で声を出してみる。なにやら現代詩というものもあるらしい、なんじゃこれは!文字がバラバラに配置されてあって読みにくい!!旧字体?これ何語?!真っ白のページあるけどこれは印刷ミス????...やっぱ詩なんて訳分からんなーと思いながら別の本。「あっ谷川俊太郎も聞いたことある。どきん?」
多分だけど、最初はこんな感じだった。
もしかしたら「すき」だったかもしれないし、「ともだち」だったかもしれない。
なんにせよ他のどの詩集よりも読みやすくわかりやすく、それでいて、なんか面白いなーという感じがあったのは覚えてる。それから少しずつ、詩というものに触れていくことになる。
11月19日火曜日
夜中に突然目が覚めた。
悪い夢を見たとか、体調を崩してとか、いつもより早く眠りについたからこんな時間に起きちゃったよ、とかでもない。時計を見たら3時過ぎ。
また中途半端な時間に起きちゃったよ、どうしようかな。なんてことを思いながら何気なくSNSをひらく。そこにはニュース。谷川俊太郎さんの訃報だった。
誰でもいつかは死ぬ。有名だってなんだって、そりゃそうでしょ。そりゃ悲しいことだけど、毎回毎回騒ぎすぎだよくらいに思ってた。そもそもあんた誰だよって人が、ここぞとばかりにアピールする品の無さにもうんざりだった。
自分のことで言えば、母方も父方も、どちらの祖父母ももういない。4人とも最後を看取った。昨日まで話して動いていた人が、今日にはもう目を閉じて息をしていない。そんなあっという間の出来事にだって、回数を重ねていけばどこか気持ちは慣れていく。
もちろん谷川さんに会ったことは一度もない。ほかの大多数と同じ、教科書や詩集や歌詞などでその存在と作品に触れていただけ。何年か前、友達に誘われて行った詩のイベントで、自身の詩の朗読をしていたのを見たことがあるくらい。やっぱり実在してるんだ!なんて言いながらビールを飲んだ思い出。
涙はなかった。案外「あ、そうなんだ、、そっかあ」と思える心でもあった。
でもなんでか、なんというか、ぼうっとするというか、眠るに眠れず、電気をつけてまで起きていたくもなく、そんな時間で気がつけば朝になっていた。
6時3分。友達に「谷川さん亡くなった」とだけ送った。詩のイベントに誘ってくれた友達。こんなことをしても、もしくは相手側になってみれば、されてもっていうのもあるだろうなと思いつつ、送信のボタンを押した。トークの画面上にその文字が表示された時、安心できた自分がいた。
11月21日木曜日
今となってはいくらでも、そうした偶然めいたものに意味を与え、心馳せるくらいしか仕様が無いのでそうするし、それはもしかしたら余計に虚しい作業なのかもだけど、とにかく、このなんとも言えない気持ちを抱えたまま制作を進めることができないので言葉にしてしまう。
してしまうって言葉の投げやりが、今はただ心地いい。