(なんだそれ)

たいして書くこともないまま、じーっと画面とにらめっこして一時間。

 

あの時のあの経験を文章にしてみようかしらと、パチパチ打ち始めてみても途中で「つまらんな〜」となってやめる。どんなに乱文だとしても、面白ポイントが一つでも作れていれば掲載することはある。でもそれさえもなく、ただダラダラと文字数稼いで文章組んだ気になっているだけだと失敗。とりあえずは下書き保存しておくのだけど、多分もう使うことはない。

気分が乗っていないと、そういう中途半端な記事だけが積まれていく。

 

ここ最近はほんと、絵描くことしかしていないから他人に語れるほどの出来事がなくて。そんな中でも唯一あるとしたら、先日、駅ビルの中に無印良品がリニューアルオープンして、早速行ってみたら想像よりめっちゃ広かったってくらいで。

 

家で、ロバート秋山がカリスマボイストレーナーとして出演したナイナイのラジオを繰り返し聴きながら、ずっとずっと机に突っ伏して絵を描いてる。

この一ヶ月でどんくらい描いたんだろうって、先月日付から数えてみたら113枚あった。

 

学生時代、地方に住んでいる身として都市部の美大・芸大生に絶対に負けるもんかと、とにかく描かなきゃ描かなきゃって半ば強迫観念のように自分に言い聞かせていた時期があったけど、その頃よりもしかしたら描いているかもしれない。しかも学生時代より絵の質は上がっているはずだから、そう考えると制作のテンションは今結構良い感じなのかもしれない。(なんだそれ)

 

RGじゃないけど、早く見せたい〜って気持ち。

作品としての質もちゃんとあって、かつ量もあるなんて俺すごいな!と、まだ誰にも公開していない絵を見つめながらほくそ笑んでる。(なんだそれ)

 

いい加減、近々の成功例に影響受けただけの焼き回しの絵にそれっぽい理由付けたり、評価付けたりする波終わってくれ。よくわからん。

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次回はもうちょっとマシな文章を目指して頑張ります。

 

おつかれさまは水餃子

おわったーおわったーおわったー。

つかれたーつかれたつかれたー。

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展示最終日無事に迎えられてよかった。もう、とにかく、いろーんな関係各社の皆様、ありがとうございました。お疲れ様でした。出会えてよかった。

新宿丸井という大資本の下、スタバ帰りの人が通るフロアで、山下達郎を大音量で流しながら小躍りする店員を演じさせてもらえたのは、とてもとても貴重で贅沢な体験でした。

 

というのは冗談でもちろん、「いらっしゃいませー」「ありがとうございましたー」「どうぞご覧くださ⤴︎い」などの声がけも積極的に行い、商品が購入された際には丁寧にお包みし、最後までしっかり見送るという業務もちゃんとこなしていました。が、その合間合間でレジ台に篭って、ちまちまドローイングを描いたりもしていて。普通の店員だったらありえん業務態度だけど、そこはまあ合同展示作家としての立場に甘えさせてもらいました。すみません。ただ、久しぶりに人の眼に触れながら描いていたので、程よく緊張感のある絵になったのは収穫だったな、と。

 

あとは、立ち続けて仕事をしている接客業の人の大変さをあらためて実感したな。

普段から運動不足ってこともあるけれど、それにしたって毎回足が棒になって倒れこむようにベッドに横になっていたから、あの過酷さを笑顔で乗り越えながら、常に客の動向に気を配るなんていやはや尊敬。(よく服屋の接客うざいってあるあるとして語られるけど、それ込みでこちらも客を演じながら会話劇を楽しめたならいいのにとは思う。素で話す必要なんてないのだし)

 

 

キャンバスに描いた絵の展示は年一くらいのペースで行っていたけど、紙に描いた絵を大量に見せる展示は、2012年に開催した個展「絵の中の展覧会。」が最後だから、およそ10年ぶり。(数字で確認してみるとすごい経ってる)

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その時のDM。印刷したものを一枚一枚家の形に切って色を塗って送ってた。

 

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会場の様子。大学二年生の頃に描いていたドローングを壁一面に貼っていた。

 

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展示会場の前、看板を持ちながら。

 

 

久しぶりすぎて感覚は薄れ、正直、搬入するまでは展示の強度としてどうなんだろう、という不安もあった。額装していないペラ紙の絵が大量に展示してあったところで、むしろお粗末さがより顕著になってしまうのではないかという不安。しかも今回は服の展示販売している空間内での展示なので、そことの親和性もやってみるまでは不安だった。(不安ばっかり)

だったけど、搬入し終える頃には、「なんとかこれだったら大丈夫そう」という状態にまで仕上げられたので一安心できた。

 

実際、会期中に絵を観に来てくれた人と話すと「こんなに大きなサイズだったんだ」とか、「今までずっとSNSの画像で見ていたけど、生で観ると全然違いますね!来てよかった〜」とかの言葉が出てきて、その反応が嬉しくもあるし、なんか新鮮でもあった。

キャンバスに描いた絵を展示している時とは若干違う反応。

常に自分の手元にあって、いつでも見ることができて、触れて当たり前だと思っていた絵は、それを実見するのが初めての人からすると、何もかもが驚きで、発見で、喜びになったりもするっていうのが、当たり前なんだけど当たり前じゃなかったなと。勉強。

 

今回48枚の絵を展示していたけど、それもほんの一部でしかなく、まだまだ紙に描いている絵は家の片隅に積み上げられていつかの出番を待っている状態。またそのうち、今度は違う選抜メンバーで展示を組めたらいいなと考えていたりします。

 

なんかよく説明できんのだけど、ほとほと疲れた日の夜ってすぐ身体を労って横になりゃいいのに、アドレナリン効果なのか、更に自分自身を追い詰めたくなる時があって。

会期終了、搬出終えて帰宅した後に「絵を描かねば」と机に向かいました。が、案の定緊張感なくロクな絵にはならず、後悔。

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打ち上げで食べた中華料理に含まれていた大蒜。真っ暗な部屋。展示のプレイリストにあった婦人倶楽部の「そいえば台湾」が繰り返し鳴ったまま、ぐっすりと眠りに落ちました。

 

ああもうこんな時間になっちゃって。

肩が痛い。

 

そして首が痛い。なんなら腰も痛くて、中腰になると「おお」っと思わず声が出てしまうくらい痛い。

 

原因は机での長時間の作業。絵を描いたり、こうしてブログの文章打ったり。

まだブログの時はいいのだけど、絵の細かな箇所を描く際に、顔を近づけて机に伏せるような姿勢でいるからまじでダメ。棟方志功か。...まあでも治らんのよね。

ダメだって、そのままでやってたらいつかどこか壊すよって言い聞かせてはいるのだけど、そうしなきゃ描けないのだから仕方ない。描けなきゃ先にも進まんし。

 

なので最近は、”高濃度炭酸ガス”が含まれた入浴剤を使って、少しでも身体の負担を和らげるようにしています。以前だったら考えられない、真冬でもシャワーだけで済ますくらい入浴面倒人間だったのに。

選んだ入浴剤は発汗作用もあるので、顔からは滝のように汗をかき、炭酸がしゅわしゅわとした気泡を放出しながら身体を包む。ぼーっとしながら考えるのは描きかけの絵の方向性だったり、次のブログの内容についてだったり。元々バランス釜だった浴槽を改修して使っているので、足は伸ばせず体育座りの形だけれど、それでもリラックス。

 

10〜15分、たんと汗をかいた後は冷たいシャワーを足から徐々に頭までかけていく。

これは擬似サウナ効果を期待して。

身体を拭いた後は簡単なストレッチ。各所伸ばし過ぎず適度な力加減で数秒ずつ。

不思議なもんでこれだけでもいくらか気分は軽くなる。

 

それでもやっぱり身体の節々は痛いままで、なんだかずっと重石を引きずるように動いている感覚。これがドラゴンボールの重力修行ように、いつか解き放たれて従来の何倍ものパワーを手にするなんて夢物語。ありもしないし今更そのネタ面白くないしで、なんだか自覚なくとも30過ぎた肉体は徐々にその変化を、鈍感な主人に伝えているのだと思う。

 

日付変わって今日と明日、新宿丸井で開催しているnisaiコラボ展示も終わります。

両日ともに終日店頭に立って「いらっしゃいませー」「ありがとうございましたー」と、これまたアパレル販売員よろしく擬似丸井スタッフとして楽しく過ごそうと思います。土曜日が一番人来そうだな。よろしくお願いいたします。

 

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nisai 2021/5th (Fall) Collection
“終わらない服(それを愛と呼ぶことにしよう)”

 

with.

HACOMIDORI

ねおう

HARUHO TAMAKI

カクレミ

近藤大輔


新宿丸井本館二階
2021年9月3日(金)ー9月12日(日)
東京都新宿区新宿3丁目30-13

 

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あーいてて。

 

それを愛と呼ぶことにしよう

いつもそうだ。

 

展示やイベント事の前の日は眠るのを拒否してしまう。

その結果、大事な初日に半ばフラフラになりながら「ああ、ちゃんと眠っておけばよかった」と後悔することになるのは、もう何度と繰り返していて分かっているはずなのに。それでもやってしまうのは、そのストレスを抱えながらの状態じゃなきゃ、余計なことばかり考えてしまって、よっぽどそっちのほうがストレスで、とても怖いからなのだと思う。

 

だから今回も夜通し絵を描いていた。

不安を払拭するように、自分は大丈夫だと言い聞かせるように。そしてその一時の安心感は、新しく線を引くたびに、強い色を塗るほどに自分の心に鎧を着せてくれた。

 

折よく今回は一人ではなく、高校時代からの友人が立ち上げた「nisai」というブランドに声をかけてもらい、合同展示という形なので幾分かは気が楽だった。ましてや「近藤さんは描いてきた絵がたくさんあるから壁一面を好きに使っていいよ」という、非常に自由度の高い場を設定してもらっていたので有難くもあった。

 

その期待に少しでも応えたい。せっかくの機会に自分なりの花を。

とにかく、せっかくの場なのだから客だけじゃなくて、提供する側にも楽しんでもらいたい。そう思って、今回の展示の為だけの絵を描くことにした。

もうツイッタにもインスタグラムにも投稿しているし、当然会場に来てくれた人は実物観ているから知っている人もいると思うけど、「青年」という題の絵。

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20代の危うげて壊れやすくて、それでいて人の温もりを欲して止まない感情の姿を写したラリー・クラークの写真集「TULSA」。古本屋で働いている時に知ったこの写真集の表紙を、いつかのノートに描いていたことを思い出し引っ張り出した。

そのラフな線画に色をつけていく。なるべく色とりどりになるように、それでいてちゃんと、今回展示する絵の中で導入としての役割をもつように。

ブランド名「nisai」の由来は”二彩”と”青二才”のふたつ。

その内のひとつ、”青二才”の意味はデジタル大辞泉によると「経験の浅い年若い男。あざけりや謙遜の気持ちを込めていう」とある。

そこに先のラリー・クラークの写真集と共通するものを感じ、英文に変換してブランド名と共に絵の中で組み合わせた。

 

で、ああいいう絵が出来たわけだけど、それが果たして意図した役割を今回の展示の中で担っているかというと、ん〜どうだろう。というのが自分でも正直な感想。悪い絵じゃないけど、ちょっと味付けが濃かったかもしれない。でも、想いを込めたことは間違いないので、結果オーライ。

 

 

なんだかんだ物事はいつも、始まってしまえばやらなきゃいけないことや、人と接したりすることであっという間に時間は過ぎていく。

20時閉館。レジ締め、入金を終えて電車で帰宅。

今日は自分へのご褒美に!と思い、買って帰った唐揚げ弁当。

ただ流しておくだけでも安心するテレビ番組を観ながら食べる。

相当眠気にブレーキをかけていたのか、唐揚げを口の中へ放りこんで咀嚼したまま寝落ちしていた。10分くらい寝ていたのか、ハッと目が覚めて口の中に食べ物があることに軽く動揺した。

テレビの中では相も変わらず、どうでもいいやりとりが行われていた。

 

 

あの日にかえる

27才の時に施設に入ってから20年もの間、ずっと肌身離さず持ち続けていた写真。

そこには両親の姿や、両親と行った旅行先の景色なんかが写っている。

朝起きた時、夕食後のほっと一息した時など、ずっとその写真を触って見つめながら楽しそうに過ごしていたらしい。ベットの上、クローゼット、箱の中など、何度も写真の置く場所を移動させているうちに四隅はボロボロになり、色も褪せていく。箱の中に入れてある時は、上下にかき混ぜながらその時見たい写真を探すので傷みは増していく。それでも毎日毎日手にとって、飽きるまで触って、思い出に浸ってたのだと思う。

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1970年生まれ。

杉浦篤さんの写真を見た、昨日。

3331 Arts Chiyodaにて開催されていた展示『ポコラート世界展「偶然と、必然と、」』を鑑賞した。https://www.3331.jp/schedule/005367.html

企画概要や出展者はURL先で見てほしいのだけど、とにかく杉浦さんの写真が印象的だった。

 

その、まず全体を通して言えるのは、「そうせざるをえない」という根源的な人間の欲望や、それに準じた感情や行動の軌跡で。それぞれの環境ゆえに生まれてくる色や形、やり方、作り方、見せ方あるのだけど、でもその中で杉浦さんの写真が唯一だったのは、”何かを作ろうとしていないこと”という点で、他にはない光を放っていた。

だからそもそも作品ではなくて(とすれば他の人も概ね”作品化”の意識はないままにやっていると思うのだけど)、言ってしまえば単なるモノの経年変化であって、長く生活していれば誰しもがお目にかかる現象であり、古い写真を長年手元に取っておくことも特別珍しいことではない。

 

なのに胸を打つ。感情がグググっと湧き上がってくる。

それは、アウトサイダーアートの括りに潜む、純粋無垢な物語を無意識的に期待しながら観ているからかもしれないし、余白や照明による演出に、まんまとしてやられた感情なだけかもしれない。

けれどその可能性を差し引いても余りある、実物の存在感と会場出た後も続く余韻。

やっぱりそれは一人の手の中で在り続けたからこその痕跡と、その時間があるからで。

アンティークでもないし、災害によって汚れたわけでもない、ご利益がある置物みたいに皆の手で愛でられたものでもない、個人から個人にむけられた愛撫。

 

『愛撫とは、 優しく、あるいは愛情をこめて、触れたり、さすったりすること。 なでさすってかわいがること。 なでんばかりにかわいがること。』Wikipedia

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この気持ちは一体なんだろうなーと整理つかずに今も書きながら考えている。

思いつくだけの言葉で表そうとするも、かえって文章がとっ散らかるばかりでままならない。なのでここら辺で。記録。

 

a memory from summer.

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うだる暑さ。

夏の思い出、手をつないで、歩いた海岸線〜♩

なんて思い出、俺にもあったっけかなーとしばらく頭を回転させてみたけど、はてさてどこにも見当たらなかった。

 

そんで今年は「夏祭り」なんて言葉すら忘れてしまうほど、花火も、屋台も、浴衣姿も見かけないまま秋になろうとしている。(暦の上ではもうとっくに秋だけど)

 

「コロナ」も「緊急」も「事態」も「宣言」も「自粛」も「感染者数増加」も、もう聞きすぎて見すぎて何がなんやらという感じだけど、それでも手に消毒はするし、間隔は空けるし、過剰な咳やくしゃみには否応無く反応してしまう。動物であるが故の生理作用、私は貝になりたい。貝も動物でした。

 

...はあ。

 

文面だとしてもため息は嫌な気持ちになるよね。ごめんなさい。

ま〜、今日も相変わらず絵を描いててさ。よく飽きずに毎日何時間もやってるなーって思うのだけど、これがやればやるほど、次はああしたいこうしたいって考えが浮かんでくるから不思議でね。

でも一つの絵に対してあれもこれも手を入れると、そのどれもがつまらく見えちゃうから塩梅も大事で。だからやっていても常に次の絵のこととか考えてると、あっという間に時間が経ってるってことなんだよね。そういった時間間隔の長短ってのは、”ジャネーの法則”によると、年齢の逆数に比例するってことなんだ。つまり年をとればとるほど意識下にある関暁夫みたいに書こうと思ったけど難しい!!!!!

 

あの独特なしゃべり口調、テレビで聞こえてくるとつい真似したくなるけど、意外と難しいんだよな。あんなスラスラと異世界の言語出てこない。

 

 

うだる暑さ。

何年か前、当時付き合っていた彼女に、仕事から帰ってきて部屋に入ったら「おかえ..足くさっ!うっわ、フローリングに臭いうつるから歩かないで!!あっちいけ!」って怒鳴られたこと思い出した。

夏の思い出。