ざつき

こんにちはこんばんは。近藤です。

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 雑記。

 

記事を書く時には事前に「これを書こう」と思って進めることもあれば、そうじゃなくてダラダラと書いてみてその時のテンションに引っ張られて文章になることもある。

でもだいたいそういった気分の時に書いた文章はいつも以上にとりとめもなく、ましてやイラつきを出発点にしてることが多いから、結局下書きのままにして放置している。

たまにはそれを添削せずにそのまま載っけてみようと思う。

 

 

【2020年6月14日】

ある地点(自分が投げたアイデアや疑問を投げた時に、それ以降は自然と広がっていくくらいの数)までは、伝える努力や工夫は必要なんだけど、その”ある地点”にいったと自分で判断できる状態になったら、そこからは逆に「伝えない努力」が必要になってくるんじゃないかと思う。

もちろん情報発信者としての役割とかそういうのもあるんだろうけど、その発信を自分の中だけに留めておくことも発信する義務感と同じくらいに必要なんじゃないか。

情報なんて自分自身がシャットアウトしていても必ずどこかで入ってくる。もうそういう時代だし、もし入っってこないままならそのほうが今は楽しく生きられると思う。

ある地点まではどんなものも良さ悪さある中で、良さのほうがが上回ってくる。だからそのコンテンツやメディアは普及していくし、その中で色々なアイデアが生まれてくる。だけどその成長にも臨界点はくる。変化しないまま変化するためのカンフル剤を打ち続けてボロボロになった老体に限界がきている。

僕が好きな人は意見や主張をあえて言わないようにしている。そこが尊敬できるし、好きでいさてくれるところでもあって信用にもつながる。

伝えないことで、自分が本当に伝えていきたいことを守っているし、その伝わる純度を高めている。やりたいことをやるために、余計な声が入ってくると、目的地までにかかる時間にロスが生じる。周囲に話して伝わっていくことで雑味が増えてむしろ邪魔になる。それぞれがそれぞれの場所で考えればいいことを、シェアしなくていい。

 

 

【2020年5月22日】

ブログを書き始める時に毎回どの自分で書こうか迷う。そしていくつかの文章を組んでから、「ああ今日はこの感情らしい」と自分で自分に納得をしてから書き進める。そうしないと最後までたどり着けずに、途中で自分の感情に迷ってしまうから。

だいたいは苛立っている。なんでこんなにも毎日のように落ち着かないのだろうと自分でも思う。焦り不安矛盾とかを些細なことで感じてしまって一旦その気持ちが膨れ上がるとなかなか治りが悪く困っている。

 

 

【2020年5月21日】

人と違うようになりたいなら、周りの人を見てみればすぐにわかる。ヒントはそこにある。

TwitterとかGoogle検索で出てきたまとめブログなんかには本当に自分が必要としてるもんなんかない。後押しにはなるかもしれないけど、そのあとの歩き続ける方法までは教えてくれない。

それは自分で自分を、もしくは人を、状況を、環境を見て感じて動くことでしかわからない。

たとえば喫茶店に入って机の上には何か作業をしようと広げたノートは白紙のままでその人は一時間も2時間も過ごしている。じゃあその広げたまま他に何をしているかというと、まず作業する前にチェックしとこうと思ってひろげたアプリに時間を使ってしまっている。もしくは何をしようかと考えている時に思いついたことを調べた寄り道に迷い込んでいるのかもしれない。

いずれにせよ、その光景を側から見て「こうなってはいけない」とか感じたなら、そうじゃない行動をまず自分がしていればいいだけのこと。

これはダサいよなとか、こういう風になりたくないなとか、その姿から想像する逆の姿に自分を近づけていけばいい。

何も一からなりたい姿を創造しようとしなくていい、他人の疑問に思う行動や言葉から出発した姿形を実行に移せばいいだけ。これなら簡単。というかじゃないと続かないかもしれない。

 

 

【2019年12月14日】

みんな前傾姿勢になってスマホ見る。

横一列、縦一列、みんな画面を指でこすって何かしてる。でも楽しそう。

何秒も何分も何時間も同じ姿勢で同じリズムでやばい。

 

 

【2019年12月6日】

イヤホンから流れる音楽でバスの中の音は分からなくなる。話し声も走る音も、カチャッとかサササとかズツッとかミモモとか微かな生物の動く音、そういうものを感じる。

 

 

 

 

はーすっきりした。

 

いつまでも下書きの欄にあるのが気になっていたから、こういう機会に消費できてよかった。

 

最後に最近の雑記。

Netflixオリジナルの「呪怨ー呪いの家ー」と「日本沈没2020」を観たんですが、どちらもなんだかなーという感じでした。特に湯浅さんの最新作ということで期待していた「日本沈没」のほうは正直最初から(おいおいこれは...)と心配になり、でも見始めたからには全部観ようと思って付き合ったんだけど、結局最後まで理解できない部分が多くて自分には合わなかった。

 

はじめてのラブホテル

こんにちはこんばんは。近藤です。

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ラブホテル、ラブホテル、この字面だけでまだドキドキできる29歳はどうなんでしょか。うぶなのか気色悪いのか、ぶりっこおじさんて一時言われていた上地雄輔さんのように天真爛漫ぶんしゃかピースぶちかましていけばキャラとして定着すんのかな。てかそんなキャラいらん。淫乱。

 

はい、というわけで。

初めてのラブホテルの思い出を書いていきます。

 

遡れば小学校低学年の頃、家は周りを山々に囲まれていた静岡のど田舎にあった。

友達と遊ぶにしても、当時は携帯ゲームなんか今みたいに普及していなかったから(持ってる奴は金に余裕のある家庭で、ゲームしたい時はみんなでそいつの家に集まってた。)普段する遊びといったらボール投げとか川で探検ごっこするとかだった。

 

そんなある日、いつものように友達の家に遊びに行こうと自転車を走らせていた。

学校終わりで夕方だったけど子供の頃ってそんなの関係なくて、少しの時間でも遊べたらラッキーみたいに考えていた。友達の家は山の入口みたいな所にあって、ど田舎の中でもさらに人気と建物が少なくなった静かな場所だった。

 

 

ひとしきり遊んで薄暗くなってきた時間。

 

真夏の暑さと楽しかった時間を風に飛ばしながらの帰り道、ふと目の前で車が横切った。その先には細く行き止まりに見える道。

 

いつもだったらさして気にも留めないことに、ある時なぜか立ち止まってしまうことってある。この時がそうだった。

あんな何もないような道にどうして入ったんだろう。気になって後を追った。

 

まっすぐ進む車、ほどなくして左に曲がった。

慌てて追いかけ、そのまま同じように左に曲がる。

 

するとそこにはだだっ広い駐車場があった。ビニールのカーテンみたいなもんが上からぶら下がっている、他にも車が数台止まっていた。まさかこんな、緑が生い茂ったような場所に人が集まる場所があったなんて知らなかったな。

ブーーーーン、と室外機の音が反響する夕日の差し込んだ駐車場、周りを見渡してみても自分以外の人の気配がなくてなんだか不気味だった。車はあるのに、それを感じさせない空気。

ジトッとした汗が流れる。

 

帰ろうとして目線を動かした時、近くにショーケースが置いてあるのがわかった。

埃かぶったガラス製の箱の中ではピンク色した蛍光灯がギラギラと、その光に照らされた意味不明な売り物、らしきものが等間隔に。

もちろんこれは大人の玩具なんだけど、そんなものの存在を知るのはもっと先のことなので、当時の印象は「ただただ怖い、不気味なもの」だった。

 

よくわからない場所でよくわからないものを発見する。恐怖映画のパターンでいったらこのあと呪われて死んでいる。

 

 

 

とにかく急いだ。

ペダルを漕ぐ足に力が入っていた。

家に着いてからは誰にも今日のことを話さなかった。自分の中だけで止めて忘れようとした。その後何度も同じ友達の家で遊ぶことはあっても、あの場所のことは考えないようにしたし、横道に目線を配ることもやめた。

そうして年月経つうちに、いつしかその思い出は時間と身体の成長が解決してくれた。あーあの時のアレはそういうことね、と。

 

 

 

以上です。

こういう見出しのが、反応する人少ないけど実際読む人多いんだよな(初めての恋愛の話とか)

でもまさかゴリゴリの体験談なんか書いても仕方ないしね。

ま、こんなもんでしょう。

 

2時間かけて書いた記事

こんにちはこんばんは。近藤です。

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先日の東京都知事選挙、指定された投票所へ行ってきましたー。

 

近くの中学校でね、久しぶりに校庭の真ん中歩いたら気持ちよくて。

その日は風が強かったってのもあるから余計にそう感じたんだろうけど、あんなに開放的な場所だったんだな。忘れてた。

 

で、大体毎年この投票の時期になると、みんな各種SNSTwitterとかInstagram)で投票してきた〜の報告するんだけど、ほとんどの確率で空とか地面とかの風景写真使うよね。なんかそのイメージある。

もちろん自分もその例に洩れず、家の窓越しに撮った朝焼けを背景に『投票完了』ってインスタのストーリーに上げたんだけど

ね!

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そういやまだブログ記事の編集機能、使っていないの結構あったな。

リンク貼ったり文字大きくする以外にはどんなのがあるんだろ。

 

まず太字にできる。これは文書の中で大切な箇所とか強調したい部分に適してるな。

更に強調したい場合はアンダーラインをひくとより目立つね。

 

 

 

 

って、おー!すごい!いちいち色変えるの面倒だけど記事が華やかになる。

 

 

あれ?

 

声が

 

おくれて

 

きこえるよーーー!!!

 

 

 

スラッシュ!

  

こんな、ブログ黎明期みたいな記事誰が読むんだ。フォロワー減るわ。

 

 

 

 

ちんちんって、そりゃ消されるよな。 

 

オーロラになれなかった人のために

こんにちはこんばんは。近藤です。

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今日は佐野弘翔という友達について。

 

彼とは大学生の頃に出会った。

静岡の街中で開催していたイベントに出展していた際、「なにか手伝いましょうか?」と声をかけられたのが始まりだった。

 

その時の印象はもう定かじゃない。ただ、向こうが「活動耳にしています!」なんて言って一方的に知ってくれていたものだから、「えーそうなんだ」なんて内心調子のっていたことは妙に覚えている。褒めてくれる人好きだったんだな、あの頃から。

 

でもその日をきっかけにして以後、展示やらなんやらで会うことが増えていって、気が付けば絵を描いて活動していく中で大切な戦友となっていった。

(戦友って言葉好きでよく使う。友達って言葉は使いやすいから多用するけど実際あまりしっくりこない。かといって仕事仲間というほどシステム化されてもない。時々確認した時に並走していたり先を走っていてくれさえすれば十分、という感覚の戦友。)

 

実際、周囲にお互いが認知されてきた頃にはコンビみたいに扱われることも増えて、単体で動いていても大概もう片方の話題が誰からともなくでる、みたいな感じだった。

 

大学は違っていたけど、しょっちゅう互いの大学のアトリエを行き来してたりしていたから距離はあまり感じなかった。むしろ一緒にいる時間が長すぎて喧嘩することがままにあった。

芸術とはなんぞや、表現することの意義とは、地方で作家として活動していくためにはどうするか、なんてことを答えも出ないまま言葉遊びのようにダラダラと喋っていて、時々その最中にちょっとしたニュアンスが気に障ったりしてムキになったり、無言になったり。俺もバカで、わざとイラつかせる言葉を投げてその様子を楽しんだりしていたからよくなかったんだけど。

でも佐野くんって人は真剣でね、言葉そのまま”真剣”をいつでも持ち歩いてるような人だったからあの当時は。そんな人なかなかいないじゃん。だからそれが他の人では代えのきかない魅力の一つだったということを、いまこの場で弁解しておきます。

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 以前書いたこの記事の中で、作品の展示販売の企画を一緒にやっていたのが佐野くんで、この写真は彼の在籍していた静岡大学で作業していた時に告知用に撮った写真。

若いねふたりとも。

 

 

  

 佐野くんはスピッツ小田和正が好きで、彼が運転する車の中では必ずそのどちらかのCDがセットされていた。中でも記憶に残っているのはスピッツの初期EP『オーロラになれなかった人のために』

これは1992年に発売された全5曲入りのCDで、通しで聴いても23分なので、長距離移動の際には何回も何回もリピートして聴いていた。特に2曲目の『田舎の生活』に強く思い入れがあるらしく、イントロが流れると「おっ、いいね」と言って必ず口ずさんでいたのを今でも覚えている。

 

必ず届くと信じていた幻

言葉にまみれたネガの街は続く

 

高校時代に所属していた合唱部の経験もあってか、佐野くんの歌声はとても澄んでいていい声だった。初期オフコースみたいな感もあって、カラオケに行ったときに小田さんの曲歌わせると、これがまた沁み入って他の友達も静かに聴いていた。その景色。

 

 

 

仏画、自画像、抽象画、華、聖者、死者、鬼、生活。

佐野くんの描く絵は生きている。それは彼自身が生きているということと分かち難く直結しているからで、なによりも力強くなによりも色濃く作品と対峙する人の内面を映し出しているように思う。

声を発している、もしくは無言を貫いている。口から血を流しながら。

草木に水をやっている、作物を育てている、虫の音を聞きながら憎悪している。

画像もなく作品のことを伝えるのは難しい。

 

ある時期から佐野くんは外に出て人と接しながら絵を描くことを始めた。

時にそれは街中を賑やかしながら歩く”チンドン屋”であったり、時にイベントにブース出展してその場で会話しながら描き進めていく似顔絵屋であったり。ヨーロッパの路上絵師のような服装をして陽気に、かと思えば前衛美術のパフォーマンスよろしく、荒れ狂ったような形相をして驚かせることもあった。

とにかくそこには文脈がどうであるとか形式がどうであるとかいった小賢しい細工を挟む余地はなくて、常に人を目の前にした対話だけが、その時間と空間を作っていた。

絵を取り囲んだ人がみな楽しそうだった。

 

何かを否定して何かを肯定したいわけじゃない。

ただ僕は、佐野くんのそういった行動は先を行き過ぎているんだなと思っている。

「似顔絵」とか、やっていることを言葉として取り出すとさして新しさはないんだけど、その更に細部の一つ一つの取り組み方に、今の時代に退化してしまったことが詰まっているように思う。だから世間は早く気がついてほしいな。より多くの人に、彼のやっている仕事の重要さを。3歩も4歩も未来に在るべきことをやっている。気がする。

 

 

いやまてよ、これは佐野くんのことを語ると言いながら自分の思考を書く口実に使っているような気がする。。

とりあえず一昨年に中目黒の「rusu」というスペースでやった二人展の時の写真を載せておく。

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一人の人間との関わりを文章として記すってむずい、、

ましてや関わってきた年数とその密度が濃いとなるとエピソードもたくさんあるし、その中でも第三者へ向けて公開していいものとそうでないものもあったりして。

自分のことなら全部書いたっていいわけだけど、自分以外となるとそうもいかないわけで。本人から事前に「これは話していい、これはダメ」なんて確認とってるわけでもないからさ、むずいです。やってみて感じる。

 

でも楽しくもある。

自分のことを書くよりもよっぽど意義があるように思う。

まだ知らない人へ、こんなに面白い人や物があるよいるよって教えること。

 

 

今一度、佐野弘翔くんとは、

ナイーブで強情張りでメガネかけてて、時に無理やりひねり出した冗談を言っては自分で笑っていて、洋楽ではEDMを最近は愛聴していて、激昂するような絵を描いていたかと思えば抱きしめてほしいと懇願するような眼差しを投げかけてくることもあり、石が好きで、地名や名前の由来に興味があり、歴史や宗教についても詳しかったりして、というか雑学に対しての好奇心がすごくて聞いていて面白い、だけど話し出すと2時間は平気で一人語りをしているから相手はただ頷くしかなく、うっかりすることもあるけど基本的にとても思いやりがある人で、早朝4時半にLINEで連投してくるような人です。

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ほんのちょっとしか書けなかったので、まあまた機会があれば小出しに紹介するかもしれません。

枠にはまらない、いい絵を描くので今後も僕は彼の活動に注目していきます。

 

それでは〜。

 

もりもりのマッチョ

こんにちはこんばんは。近藤です。

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 「レディ・プレイヤー1」やっぱ面白いなー。

 

ここから森崎ウィンって俳優を意識しだして「母さんがどんなに僕を嫌いでも」とか「蜜蜂と遠雷」でもいい役演じていてよかったな。

 

映画でいうとそういや最近シュワちゃんの映画見返してたんだけど、「コマンドー」とか「プレデター」とかいいね。ああいう序盤からいきなりアクションシーン満載で、物語の整合性とかどうでもよくて、とにかくマッチョな画がずっと続くあの感じ。

スタローンとかセガールとかよりもやっぱシュワちゃんが一番好きだな、同年代のマッチョ俳優の中で。

しかも笑えるんだよなー。はちゃめちゃ具合とか、この人物いきなり登場してきて特に何も説明ないまま結局最後まで一緒に生き残って主人公と顔合わせて笑顔でヘリ乗り込んだりしてて。おいおいみたいな。

あと、シュワちゃん映画でよくあるシーンが、カメラがシュワちゃんの後ろ姿に迫っていっての振り返り横顔(視線だけカメラ目線)これが大体どの映画でもあって笑った。

 

いまマッチョ俳優ってなかなかいないもんな。

ジェイソン・ステイサムとかワイルドスピードシリーズのドウェイ・ジョンソンとかしかいまパッと思い浮かばない。スマートな銃撃戦、カーアクション、CGだもんな大半は。それはそれで面白いし好きなんだけど。トム・クルーズの、自らアクションシーンをやってる感じとかいいなと思うし。主演映画では大抵プロデューサーも兼任していて、危険なシーンのアイデアとか積極的に提案してるらしいんだけど、結局それは自分がやってみたいからってところを出発点にしてるところがイかれてるよね。かっこいい。

伏線ばりばりの思考映画もいいけど、単純明解な娯楽映画も、それを求めてるときに淀みなく受け取れるからいいな。

 

絵画を解体する(練習)

こんにちはこんばんは。

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今年ももう半分過ぎてしまった、とか考えてるとなんだか夜寝付けない日が続いて日中あくびばっかりしています近藤です。

 

 なのでそんな眠れない時は絵でも描こうかと思って、バケツに水を入れて、作業中に聴くラジオor音楽を選んで、炭酸水をお供にしながらキャンバスとにらめっこしています。でも自分がどんな絵を描きたいのかわかんないんだよなー。

絵画・・絵画・・・。

確実にその魅力はあって感動もするし、まだ見たことがないものを自分の手によって描きたいっていう欲望も当然あるんだけど。例えば、幼い頃から絵を描くのが好きで親族や学校の先生にも褒められてとか、多感な時期に美術館で出会ったある一枚の絵が忘れられないとか、そういう芯になるようなエピソードは特にないんだよな。大学受験のタイミングであわててデッサンをやり始めた身だし、美術予備校通う金なんかないから放課後一人独学で描くしかなかったから。だからそういうのを考えると「美術」ていうジャンル自体にはそもそも初めから思い入れがなかったのかもしれない。

なかったのか、、、

まあ今だからそう思うのかも。

 

どこかで希望みたいなものを抱きながら活動してた時期もあったろうし、その中で色々経験することで見方や捉え方に変化してくることもあって。時にそれは絶望っていうと大袈裟な言葉だけど、「そんなもんか」なんて知ったような口ぶりで語ったこともあったと思う。

 

なにがいいたいのか。

正直、今日記事書くのだるいぞ〜〜って思ってる時は大体こういったとりとめのないダウナー系の文になることが多いです。酒飲もうかな、

 

みんなの『日常』は、もう結構日常ってるのかな。

 

 

 

 何年か前に、

描いた絵を解体してみようと思って撮った動画があるので載せておきます。


絵画を解体する(練習)

 

布に描いた絵を壊して

作品はどこへ帰るのか

 

サザンの「真夏の果実」的に言うとこんな感じかな〜。

居場所について考えてる時期に、そういや作品にとっての居場所ってどこなんだろうって考えていて。展覧会場なのかアトリエなのか購入者の家なのか廃棄物置き場なのか、はたまた作者や鑑賞者の心の中なんてロマンティックなスペースか。謎だな〜。

 

 

 

 

 

 

夏だな〜。

 

 

7月、手前のサイレン

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パトカー、消防車、サイレン。

「どいてどいて」

消防ホースを持った救急隊員が人混みをかき分けて進む。

 

周囲では、スマートフォンのカメラを動画モードにしながら事の行方を見守る人。人。なにがあったの? 火事がおこったらしい どこだ びっくりしちゃって ねー ねぇ

 

7月を目前にした夏の湿気に包まれながら、コンビニで買った夕飯をぶら下げて歩く。

 

火事が起こったらしい現場は家から数十メートルの場所で、家に近付くにつれて近隣の住民の数は多くなり、普段は閑静な住宅街も、そこには当たり前に沢山の人の生活があったことを知る。

 

マンションの窓からは煙が漏れていた。モクモクと。

黙々とその光景の隣を通り過ぎる。自分。 

 

 

 

 

きっと

毎日の達成感によって得られる喜びは、その代償を払ったものにしか与えられることはない。

心がすぐに渇望してしまう自分なんかは、その毎日に過剰に刺激を求めるために行動がそれに追いつかず、すぐに自己嫌悪になってしまう厄介なやつで。

時にそれは心に重くのしかかって身動きする事も億劫になってしまうほどで、感動もなにもあったもんじゃない。くらいのモードになることもある。その症状の名前を知っているけど口には決してしない。言葉は呪い。

 

 

 

 

とまあ、そんなモードで歩いていた。

今日は素麺を啜ろう。暑いし、あまり食欲もわかないし、ささっとすまそう。

そう思いながら歩いていた折に出会したサイレン。

 

状況は知らない、詳細ももちろん知らない。そこでは誰が暮らしていたのか、その家はどうなったのか、どれほどの人が、その光景に集まっていたのか。なにも知らない。

 

ただ、その時なぜか「ドキリ」とした自分の身勝手さは2〜3日忘れない。

と思う。

 

今年、夏の風物詩である花火大会の中止は誰の目にも自明だ。