投票前のある日。

駅前の選挙演説は若い人が拡声器でうったえかける。

この時期になると駅前や大通りは賑やかになる。

祭りの時に人の流れを誘導するアナウンスのことを思い出して、なんだか懐かしい気持ちになった。

 

幟を持った人は、少しでも立ち止まってもらえるよう、通り過ぎる人々へ呼びかける。

チラシを配る人、人の視線は下を向いたまま。

駅から流れ出る人の波へ向かっていく自分と、誰かの背中から石鹸の匂い。

 

ドラッグストアの隣にまたドラッグストア。

元はスーツの店だった場所が一ヶ月もしないうちに違う場所に生まれ変わる。

元の形式を壊したむき出しのコンクリート

何もない状態が一番の可能性。

派遣のバイト、運ばれた什器によってフランチャイズ展開。

またもや戦略のない戦力で整備されたダサい街並みにもうげんなり。

 

ガールズバーの客引きが店の前に立ってスマホを操作。

集中したい周知されたい、そんなことで埋まる時間を誰だって嘆いてる。

おつかれさまですご機嫌様偽ってます。

「ですます」がこんがらがった調子で一体何を伝えようか。か、、

 

 

はじめてのライブ

耳鳴りが続いている。

キーンと耳の奥で響いているものが、いつになったら治るのか分からずに、もしかしたらこのまま続いていくものなのか、いや、むしろいつかプツンと音が聞こえなくなってしまうのではないかという、えもいわれぬ不安が帰り道を包んでいた。

 

人生で初めての音楽ライブ体験は自らの意思ではなく、予定が合わずに行けなくなったチケットを友達から譲り受けたからだった。

高校生時代、当時はまったく興味の無かった木村カエラのライブ。

 

『キレートレモン プレゼンツ LIVE TOUR 2008 「+1」』

 

新しく発売したアルバムを引っ提げてのツアー。

しかしそんなトピックにはピンとこず、ただただ無料でライブが観れるのならラッキー!てなくらいの感情しか持ち合わせていなかった。まだ「Butterfly」で爆売れする前だったし、かろうじてTVCMで使われていた「リルラリルハ」を覚えていたくらい。

 

会場はアクトシティ浜松というJR浜松駅の目の前にある大きなイベント施設で、周囲には同じような高層ビルが乱立していて道路の道幅も広く、心なしか行き交う人々の服装も都会的でセンス良くキラキラ輝いて見えた。

ライブも初めてだったが、浜松も初めてだった。そして同じ静岡県なのにこうも違うもんかと驚いた。むしろ自分が住んでいたのは県庁所在地という冠があったので、地方都市とはいえ自分は県内で一番都会的で栄えている場所に暮らしているという、なんの根拠も証拠もない自負があり、単なるアホなんだけどそれゆえにショックが大きく、これから向かう木村カエラのライブ会場への足取りも自然と重くなった。(なんで?)

 

会場に着くとパンキッシュな格好の人がやたら目に付いた。

派手な髪色と派手な装飾品。ユニクロファッションセンターしまむらで全身を包んだ自分は完全に浮いているように感じた。ここにいてはならない、お前は場所を間違えてないか?の視線。ありもしない妄想、というかそれ以前に初めての空間なので、そこでのマナーが分からないことが余計に不安を大きくしていた。

唯一の救いだったのは貰ったチケットの座席が前から3列目という好ポジションだったことで、ファンでもなんでもない自分には勿体ないなと思いながら機材の置かれたステージをただボーっと見つめていた。

 

ファンではなかったものの、せっかくなので少しの予習くらいはしていた。ネットでsakusaku時代のショートヘアー姿を見たら一瞬で惚れてしまい、曲よりもビジュアルの変容の歴史を辿っていた。もしかしたらこの頃から自分のハーフ顔好きは始まったのかもしれない。アルバムも、聞き込んではいないが一聴はしたくらいの感じで臨んだ。

開演時間になり照明が暗くなった。さっきまで程よく賑やかだった会場の空気は一変し、歓声とともに拍手が起こった。胸は高鳴る。周囲の見よう見まねで同じようにリアクションをとる。拍手が収まりかけた時、ステージ左側から木村カエラがバンドメンバーと共に登場した。

 

顔が、顔が、、!!!!!!

ステージに向けられた何個かのスポットライトが照らす木村カエラ。その顔の小ささといったら、本当に誇張なしに自分の手の中に収まるんじゃないかというほどに小さく、そして圧倒的に可愛かった。それまで出会ったどんな女子よりも輝いてみえた。そんな存在が手を伸ばせば届いてしまいそうな距離にいる。これが本物か、これが芸能人か、と半ば呆然としながら見ていた。その刹那、一曲目の「Jasper」のイントロが流れ、一気に音が会場を支配した。

 

Jasperは打ち込みを使用したダンサブルな曲で、前後左右ではぴょんぴょん飛び跳ねたり手を上げたり、たまに後ろの方からは「ひょーぅ」「ほぅわっ」といった声も聞こえてきた。

木村カエラも楽しそうにジャンプしながら歌っている。時折客席の前方に視線を向ける時があり、目が合っているように感じた自分もこの会場と一体とならねばと思い、一生懸命に手を上げたり小さく飛び跳ねたりしていた。

理解する間もなく、曲を楽しむ余裕などなく二曲目「NO IMAGE」に突入。

バンドの生音が本格的に加わり音が立体的に、そして大きくなった。

普段イヤホンで聴いている時も結構大きめの音量で聴いていたけど、それとは比にならないくらいの音量が耳に押し寄せる。これ大丈夫なのかな?と少々怖くなりながらも、相変わらず周りの動きに合わせて動く。

五曲目には大ヒット曲「リルラリルハ」で更に会場の熱気は上がり、唯一ライブに行く前から知っていた曲だったから自分も素直に嬉しかった。

そして次の「STARs」のイントロで事は起こった。

まるでアンプが故障して爆発音でも鳴ってんのかと思うくらいに、まとまった音の振動が鼓膜に押し寄せた。それまでも大きいと感じながら、なんとか持ちこたえていた耳が「もう無理」と音をあげた。

 

 

それ以降の記憶はなんだかぼんやりとしていて、コール&レスポンスもアンコールの手拍子もしたような気がするのだけどあんま覚えていない。

ただただ残ったのは、木村カエラ可愛かったな。人形みたいだったな。という薄い感情と、会場を出て駅まで歩いている途中で気づいた耳の異変だけだった。

 

今となればその耳鳴りは数時間〜数日で治まるものだと理解しているけど、その時の自分は気が気ではなかった。慣れない環境に無理に身を置きすぎたせいでこの体に異変が起きている。かくも繊細だった自分のSOS信号に、なぜもっと早く自身で気がついてやれなかったのだろう。あーもうばかばか。そんなことを思っていたようないなかったような、帰りの電車でいつの間にか寝ていた。

 

 

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2021.4.23(金) 渋谷TUTAYA O-EAST

SuiseiNoboAz LIVE "3020"

 

ボアズ史上最大キャパのライブは相変わらず飾らず愚直に渋くてカッコよく、サプライズにMOROHAのアフロがサプライズ出演したりもして楽しかった。

そんでこれも相変わらずの轟音ファズ仕様で、今でも耳鳴りがするのだけど、あの頃みたいにあたふたはしなくなった。

結局初めてのライブ体験は本当に"体験"だけだったなという感じで、でもその後アルバムを全部聴きこむほどに木村カエラ大好きになったし、今こうして文章を書きながら思い出すように聴き返してみても良い曲いっぱいある。

中でも「STARs」が一番好き。

 

てか情弱でいい。

2021.2.18(木)

 

どうもこんばんは近藤です。

 

ちといきなりなんですが、最近読んだ本から一部抜粋します。

 

ーールサンチマンと哲学的思念とを、わけもわからぬままごっちゃにし、心の汚物を先人の思考になすりつけて世の中に垂れ流す、これは明らかな環境汚染である。(中略)

思想的なものが汚らしい感じを帯びてくるのは、それが、アタマめかした実はウラミツラミに、こっそりと換えられるときである。

たとえば、「思想とは孤絶の道を歩むことである!」と息巻いている男は、その性格の悪さのために嫌われているだけだったし、「自己疎外は資本主義経済の必然的形態である!」は、俺が面白くないのは世間のせいだ、にすぎなかった。

先人の書物を読むときも、自分の不平を正当化してくれる章句ばかりを探して読んだ。こういうトンチキやその世代が、出版社なり言論なりの中枢で文字通り派閥と権力を掌握して、あんぽんたん思想書を拡大再生産している現在だから、人々が健全にものを考える習慣がこの国に根付くのは、まだ先になる。

     池田晶子(1994)『考える人 口伝西洋哲学史中央公論新社出版。

 

まだ序盤で読んでる途中なんだけど、この快活さに思わず笑ってしまった。

哲学系の本は頭の中でパズルが組み合わされば面白いのだけど、なんせ文体が硬くて読みにくいから普段は手にしない。でもこの本は口語体で、かつ砕けた文体にしているから読みやすく、しかも痛快だった。

"トンチキ"とか"あんぽんたん"とか連続して出してくるなんて、ああもう卑怯。

 

 

幅広く情報を得ることは良いことでもあるけど、それって人によって向き不向きがある。なのにその素質がないままに得ている気分だけの日進月歩は虚しい。

だったらもういっそのこと知らなくていい。知る必要がない。知らないままでいても気が付くことに本当の"知る"がある。無知の知。きほんのき。そしてそのエネルギーがたくさん詰まった人と接していると楽しい。単に笑えるとか喜びがあるとかじゃない、もっと複雑だけど単純で、言い表せない別の楽しいがある。

なーんも知らなくていい。開き直りでいい。読んでいた本の内容は関係ない。

 

てか情弱でいいのに。

 

 

SNSのことを誰かがSNSで批判する。それを見た誰かがSNSで笑ってる。あちらこちらでてんやわんや。きみのことがきらいです。ええじゃないかええじゃないか。

SNSでの出来事をSNSで組み立ててSNSに投げこむ迷いこむ。芸達者。かんけいないのにだいすき。喜怒哀楽の四面楚歌。

 

木々の隙間を見つけて、雲の流れを予測して、風はどこからくるのか分かるはずもない。家の窓を覗いて、明日の予定を忘れて、大通りからの抜け道を探す。目を閉じてまっくらな場所から何かを感じて。誰か助けてSOS。

 

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20121.3.24(水)  

何を言いたいかというと特に何か言いたいわけでもない

墓参りに行ってきた。

静岡の田舎に母方の祖父と祖母は眠っている。

 

早くもアクセル全開の花粉が風に舞っている日曜の正午、しんどい頭と鼻をすすりながら寺まで歩く。くしゃみするほど憂鬱になっていくのだけど、それを紛らわせるのは山!山!山!そして川!の風景。なんてのどかなんだろう。

 

道すがら思い出すのは小学生の頃、その地域一帯で月1で開催されていた朝市が楽しみで、とりわけ親戚が作っていたよもぎ大判焼き目当てに毎回売り場まで駆けていた。

狭い道に明確な境は無くて、車と歩行者は譲り合いながら進む。側には小さな川が流れていて、それをずっと上流の方まで辿っていくと大鈩不動尊(おおだたらふどうそん)に着く。

そんなに広くない場所に300以上の地蔵さんが点在していて、その間をチョロチョロと水が流れる。薄暗くて、子供には少し不気味な場所だった。

 

ちなみに、大鈩不動尊という名前が変換で出てこなかったのでネットで調べていたら、『静岡の森に息づくジブリ!』という題でまとめ記事になってて驚いた。しかも掲載されてる写真が実際の風景を知っている人間からすると、明らかに、いやむしろ大袈裟に彩度高めの演出されていて「なるほどな〜」と思った。

 

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大鈩MAP

 

 

 とまあだいぶ話が逸れたけど、お墓があるのはその大鈩不動尊の入口にある誓願寺というところ。

山門から望む参道とその奥にある本堂、それだけでなんだか清々しい気持ちになり、今までかいていた汗もすーっと引いていくようだった。

人気はなく静かで、ただ強風に巻き上げられた枯葉がそこかしこに落ちていた。

枯葉はお墓の周りにも散乱していて、供えられた花も萎んでいたし、水は濁っていて、蜘蛛が巣をつくっていた。ザ・墓の光景なんだけど、久しぶりに見るとなんだか可哀想に思えて、せっかくだし掃除をすることにした。(当たり前)

 

まず手桶に水を汲み、雑巾をしぼって墓石を拭いていく。ぱっと見た感じでは汚れているように見えなかったけど、拭いてみるとすぐに雑巾が真っ黒になった。

ただの石なのに、拭く前と後では違う表情のように感じる不思議。

花立をスポンジで洗って新しい花に替え、枯葉を取り除き、いよいよ線香をあげる。

寺の中にある売店で買った50円のマッチ棒。いざ線香に火を付けようとするも、風が強くてなかなかマッチ棒から移ってくれない。ひゅっと白い煙をあげてすぐに消えてしまう。そうして付けては消えを繰り返し、結局10本あったマッチ棒を全部使って、成功したのはたったの4本。

火もまともに付けられないのか俺は!と少し落ち込み、束になった線香は買った時と同じ状態で右手に残った。(あとで思ったけど、一度にそんな数をあげる必要ないんだよねそもそも)。

 

 

すべて終わり、手を合わせる。

祈るでも願うでもなく、報告するでもない。ただ両の手を合わせて目をつむり静かにする。それだけ。 

思えば父方の祖父母が亡くなった時も、家にある仏壇に毎朝線香をあげて手を合わせていた。

それが何になるのか、どういう意味があるのか、まだよく知らない子供の頃。

でも今考えると、きっとそれが何にもならないから、どういう意味かさえ知らなかったから、続けていたのだと思う。

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帰り道、テニスコートで談話しながら体を動かしている年配の人たちを見た。

丸子川という小さな川の側にある、地元の人が使っているスポーツ広場だ。

雰囲気から試合が控えているという感じはなく、健康の為、もしくは友人と会う口実として、その人たちは場を必要としているように感じた。それが微笑ましくもあり、美しいなとも思った。

でも、そうした何気ない風景に思いを巡らせることができたのは、いつからかその場所と自分との関係が希薄になっていたことの裏返しでもあって、単に温かなエピソードというところには着地できなかった。

日中のくしゃみがまた、ぶりかえしてきた。

 

 

BADGOOD

やっとこさ個展の告知ができた。

  

「BADGOOD」

 

"バッドグッド"

もしくは、"ビーエーディージーオーオーディー"でもよし。

これは単に言葉で発するときのリズムがいい感じだったので採用。

まあどちらにせよ大きな意味はなくて、ある時ふと思い浮かんだもの。

思い浮かんだ勢いそのままに、手に持ってたスプレーで目の前の木製パネルに描いたのがスタート。

その時は"Good Bad"だった。


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 良し悪しの順、GとBは大文字でその他は小文字、間にはスペースを空けていた。

しばらくは、というか告知するギリギリまでその順番で題は決めていたのだけど、これまた不意に、逆にしてみたらどうだろう?全部大文字にしてみたらどうだろう?間も詰めて一つの文字列みたいにしてみたらどうだろう?という謎の啓示が降りかかり、試しにやってみたところ、こっちの読み方のが今の気持ちに近いなと思ったので変更した。

 

どちらもいずれは起こることで、それは繰り返し繰り返し打ち寄せる波のようでもあるのだけど、でもどうせ遠くにある景色なら、"良い"波を待ちながら眼前の荒波に対応していたい。

そして、いつだって描くのは自分を中心とした同心円状の人間模様、その悲喜交交です。

 

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会期までおよそ一ヶ月。

緊張と不安と期待とがマーブル模様みたいに混ざり合っています。

 

バズらないでお願い。

いつも、ふとした時に思いついたことをメモアプリに記録しておいたり、ノートを持っていればそこに書いておく。そしてそれがいつか作品のモチーフになったり、展覧会のテーマになったり、単純に思考の整頓になったりするし、このブログのネタになったりもする。

今日は久しぶり(なんと18日も空いてた)の投稿だけど、そんなメモの断片を加筆再構成しながらの掲載です。

 

 

市場価値のない一見ゴミのようなものにとてつもない魅力を感じて、どうしても欲しくなる感情ってすごく大事だと思って。その集合体が積み重なってモザイク画のように自分自身を描いてくれるのなら、そのゴミを探し当てる直感だけはいつまでも捨てないでいたい。

 

歌はイントロなしで0秒から始まる。そうしないと今の聴き手に飽きられてしまうから、その前に仕掛ける。そして最後まで聴いてもらうためには細かなギミックをいくつも用意しておかなければならない。長すぎるものは聴き返してもらえないので短い中で風呂敷を畳む。

 

大好きな歌手の新譜はサブスク解禁と同時にチェック。CDは映像特典等があれば買う。が、パソコンに取り込んでしまえば物としての存在は邪魔なのでメルカリで「ほぼ未使用」で売ってしまえば実質数百円で購入できたことになる。なんせ中身は一緒だ。なんて手堅く賢い選択。

 

"ノリ"ってもんが不思議だ。そりが合うかどうかとも言える。なんたって目には映らないくせに、それを判断する側からすると違いが明確だったりするから、何でよと思う。その空気感の支配する場所に自分の"間"を持ち込むのは結構難しかったりする。でもそこで諦めずにプレゼンし続ければ、その"ノリ"の変容も可能かもしれない。あきらめないこと。でもあきらめてもいい。

 

羨んで人の背中ばっかり追っかけて歩いているような人には全く魅力を感じない。ある瞬間や、ある時期まではそれも有効な手段だけど、いかんせんその場所にずっと留まり続けているだけで工夫がない真似ばかりの姿には尊敬はもちろん信頼も薄れていく。誰もが戦っている。その戦線で隠れ蓑にばかりいるのはどうもいただけない。

反対に魅力を感じるのは、自分の中にある欲と文化と向き合っている人。

それが結果的にその人が生み出すものにあらわれてくる。言葉でもなんでも。

 

流行り廃りをどこかで斜に構えながら見ている人が、なんのことはない案外話題がSNSから拾ってきたものばかりだったりするし、電車の吊革を気にしている人が帰宅後の手洗いうがいを忘れていたりする。毎日特茶を飲んでいるくせに肝心な運動は面倒くさくてやらずにいる自分もそうで、なんなんだこの矛盾感!それと戦いながら日々皆生きているんだろうな。

 

エッセイが面白い人になりたいな。

 

自分のことはまっ先に棚に置くけど、言葉が面白い美術の人ってほんと少ない。

というかそれ以前に内輪以外に向けた言葉を持ってなさすぎて、それって興味ない一般に伝えたい言葉なのか、関係者にだけポジショニング獲得のために響けばいいと思っているのか、よく分からないままずっとぐだぐだ「あれはあーだこーだ」「誰々の文脈で」とか展開し続けてるのが、ああこの病はやっかいだなと思う。

ラジオ番組・作品解説・オープニングパーティートークセッション・シンポジウム・ワークショップ。ネット上を回遊して色々見てみたけど、どうもしっくりこない面白くない。かといって道化を演じて美術を面白おかしく紹介しようとするとアウトサイダー、奇人変人岡本太郎草間彌生ピカソゴッホ。もしくは知見のある文化人をナビゲーターにして作ったとしても、今度は業界の側からやんややんや野次が飛んでくる。

入り込んで来れば「無知だ間違いだルールを守れ」で、入ってこなければ「教養がない本質がわかっていないこんなの日本だけだ」となる。うーーーーーむ。

作品制作はこの先も続けていくけど、どんどん美術の世界の人に魅力を感じなくなっている。

これは回り回って自分に対するフラストレーションのカウンター攻撃であって、誰かにどうのこうの言っているようで全て自分に向けた拳なのです。

 

 

 

Twitterから。

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この投稿がこんな数になっていて驚き。

去年の夏にはまだ200人くらいだったフォロワーが、ドローイングを毎日上げ続けていたら段階的に増えていって、ある時期からはRTも手伝って今現在もゆるやかに伸び続けている。日常的に何かを"つぶやく"ってのが本当苦手で、しなけりゃしないでいいんだろうけど、でも見る側からしたら毎日のように何かしらが投稿されていた方が楽しいわけで、それを意識して頑張って言葉を投稿していた時期もあったけど、時間ばっかりとられるし虚しくなってやめた。でも描いた絵を投稿するだけならインスタと同じ原理で考えられるから、と思って切り替えた。自分に合う継続とタイミング。

すこしバズり、でも『多くの人に見られるってことは馬鹿に見つかることと同意』だって有吉さんが言っているし、それは実際有名にならなくてもその周辺で起こっていることに目を向ければ自明で、この数字自体も空虚なものだって色々調べれば分かることだから嬉しさは思いの外なくて。

 

それよりもなによりも、ずーっとこのブログを始めた頃から言い続けている"濃い関係"をこれからも地道に増やしていきたい。

例えば、このブログ始めた頃は毎回5〜8人の人が読んでくれていたけど、今は25〜30人の人がこんなダラダラした記事を読んでくれている。今あらためてブログや本といった読むメディアが注目されているとはいえ、タイムラインを滑らせながら得る情報に慣れている現在、特別文章に長けたわけでもない一般人のブログを何分かかけて読むことは普通しない。ありがたい以外の言葉がない。

BASEでの作品販売はお金を介するし、更に作品との相性もあるから同じ括りでは語れないけど、要するにもう一歩踏み込んでもらうことが大事だと思っていて。

表面的な数増やしはあくまでそこでしか判断しようとしない人のために用意してあげるもので、自分にとって大事なのはそこから中に入ってきてくれた人で。

やっぱり判然としない多くを想像するよりも、一人一人顔を思い浮かべられることのほうがいい。

 

 

おめでとう

 

ギターの弦を、つまびく音が聴こえる午後に

いま僕は外を眺めている。

リズムのない

メロディーもない

そんな何かを求めているのかもしれない。

いつか話したことを、後悔しているのかもしれない。

 

歩いて歩いて、歩いて歩いた。

粉々になった枯葉が足元に転がっていた。

夜のような夕方に急かされているような気がしていた。

昨日の晩に食べたものを思い出せないままに、今日の晩の支度をする。

遠くの予定も近くの約束もなかったことのように。

いつかの夢も、また会う日まで。

 

時が進んで陽が暮れて、日がめくられたら年は明け。

おめでとうございます。

ありがとうございます。

みなさん、調子はどうですか。 

 

この頃の風の強さにはほとほと参ってしまうけれど

合わせて冷たい空気が身体を冷やしていくけれど

マスクの隙間から漏れる蒸気、内側に付く微かな水滴。

今年も、いい年にしましょう。