つづく話

6月3日(木) 晴れ

今日は週一で中山先生が来る日でドキドキしてた。勉強を全然やっていなかったからだ。あと、中学校に行く予定だったから。なので、先生が来るまでドキドキしておちつかなかった。そして、ついに先生が来て、いざ勉強をやると、だんだん落ち着いてきて問題ができてよかった。しかし!3問間違っていて、あーやっぱり日々の努力が結果につながるんだなーと思った。その次はとうとう学校に行く時になり、またドキドキしてきた。学校に行ったら、いろんな人に会い、余計に緊張した。校長先生にも会って、心臓が止まるかと思った。今日はまったく、忙しない1日だった。

 

6月11日(金) 雨

今日は、中山先生が12時ごろ来てくれた。

前日に「明日行くかもよ」と言っていたから何時に来るんだろうと思った。実際昼にきた時には、えーこんな時間にきたのーと思ったが、それは口にはしなかった。で、先生は勉強を教えてくれると思ってたけど、なんと!学校に行ってみない?と言ったので、びっくりした。自分の性格上、いやとは言えなくて「行きます」と言ってしまった。けど、行ったら意外にいろんな事が知れて、やっぱよかったと思う。とくに畑で育てている野菜がすごくいっぱいあって、こんなに育てているんだーと思った。

はやく自分も学校に行きたいと思った。

 

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ある日、母方の祖父から

「ろくに外にも出ず家の中で過ごしているなら、少しずつでもいいから続けなさい」

そう言われて渡されたこげ茶色の表紙。中を開くとびっしりと日記を書くための空白。

うわーめんどくさ、と内心思いながら「ありがとう」と一言お礼をして家に持ち帰った。

 

さて持ち帰ったものの、日記をつける意義がその当時はよく理解できず、机の上に放ったまま手をつけずに日は過ぎた。埃をかぶっていく祖父の想い。少しでもやる気になればと思ったのだろう、皮っぽい質感のカバーは一見すると高級感があり、中学生が持つには少々渋めな感じではあった。でもそれも気持ちだ。不出来な孫に対する祖父なりの気遣いを、思春期特有の自己中心的残酷さでもって処理してしまった。

勝手だけれど、誰しもにそういう時期は備わっているものだと今になって信じたい。

 

すっかりその存在を忘れ、引きこもり生活も一年が経とうとしていたある日、そういえばあの日記帳どこにやったんだっけ?と、ふと思い出して机の上を見渡した。

しかし今更その姿はなく、でもさすがに捨てた覚えもなかったので、本やらCDやらで散らかった部屋を片付けがてら探すことにした。そうしてやり始めて数十分、ようやく見つけだした場所は、押し入れにあるカラーボックスの中の一番奥。

他の色んなものに押し込まれ、ぐにゃっと曲がりクセのついた日記帳と久しぶりに再会した。

 

 

中学2年生。

依然として不登校は続いていた。

ただ、以前と違うのは中山先生とプリント問題を解いた後、一緒に外へ出るようになっていたことだ。

目の前の公園、その先の自動販売機、コンビニ、大きな交差点、郵便ポスト。

中学校までの道のりにある大まかなポイントを目標に、少しずつ少しずつ歩みを進めていく。

祖父母の家に行くときはなんでもないのに、目的地が中学校というだけで、どこから湧き出てくるのか恐怖心が身体を覆う。近づけば近づくほど、目の前の視界が狭まっていくような感覚になる。

それでも先生は、無理しないようにと気にかけながら、徐々に中学校へ近づく自分の背中を押してくれていた。そのおかげで何度目かのチャレンジのとき、ようやっと靴箱のところまで進むことができた。が、思っていたよりも達成感はなかった。

それよりも、授業中の校舎の静けさに安堵していた。

 

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日記帳は、最初に書いた2004年5月31日から、最後に書いた2004年8月29日まで、およそ3ヶ月間ではあるけれど毎日欠かさず続けていました。

ほとんどがくだらない愚痴みたいなので、文章も今以上にヘンテコだったけど、それでも確かにあの頃の自分は存在していたんだなって思えた。

そして冒頭の文章にあるように、この頃から次第に学校へと通うことになる。

ただし、いきなりクラスに戻るのはハードル高過ぎっていうか、それはもう鯉池の中にパン屑投げ入れるようなもので(全然違う)、だから中間地点としての「相談室」にまずは通うことになった。

 

後々振り返ると自分の中学校生活の中心だったのは、クラスのみんなで楽しく賑やかな教室ではなく、静かに自分の時間を淡々と過ごす、この「相談室」という場所だった。

 

つづく。