ピッチギリギリの情念

おはようございます。近藤です。

最近ずっと雨ばっかで、おまけに寒くて体調崩したりもしてたんですが、今朝はあったかい陽が射していてなんだかいい感じ。洗濯物が溜まりに溜まって山盛りになっていて、それがなんだか造形的に面白いなと思って写真撮ってしまった。

けどさすがに人様に見せるようなもんでもないので載せはしないですが、まあそんな一日の始まりで。

 

昨日からずっとLiSA『炎』を繰り返し聴いている。

というかこれしか聴いていない。

だけど鬼滅の刃は一切観ておらず、LiSAさんの曲はこの曲と『紅蓮華』くらいしか知らない。

きっかけは鬼滅の映画予告で、主題歌として使われているのを何の気なしにテレビで聴いた時に「うわーいいなー」と思って一発で心もっていかれた。

聴いていない人からするとなんのこっちゃ分からないと思うけど、僕はこういう曲が大好物で。ストリングスを使ったダイナミックな展開、序盤は大人しく、でも内面にある熱みたいなものは徐々に解放していき、中盤で少し変化を加えて一回沈黙の後ラストサビにつなげる。全体的にドラマティックな構成、ピッチギリギリの歌唱、どれもJ-POP史に脈々と受け継がれてきたお家芸なのだろうけど、それでもやっぱりこういう曲は無条件に力をもらう。聴いてる自分もなんだか不思議と曲につられて怒ったり悲しんだりして、その感情のジェットコースターに相乗りしている。

 

少し前だとDISH//の『僕らが強く。』って曲もずっと一時ずっと聴いていた。これはスッキリの月替わりのエンディングテーマ曲として流れていたのがキッカケだったな。

こういう感情値多めの曲って男性だと”情熱的”になって、女性だと”情念的”になる気がする。あくまで主観でしかないけど、男性の方は表面的な体温高めで、対象が外にあっても結局は内なる自分を鼓舞する意味合いが強くなってる気がする。

対して女性の場合は内面からぐわ〜っと重く濃いものが唸ってるような感じ。湿度高めで、それは曲調とか声色とかで判断できるようなもんじゃないというか、実体験に基づいた底知れぬ切実さがある。ように勝手に感じてる。

 

女性のピッチギリギリ曲でいうと90年代のTKプロデュースが大体例として出てくるけど、自分の場合はそこは通らなくて圧倒的に浜崎あゆみさんだった。歌手としてじゃなく、かといって素人感はまるでない、ただ一人の女性がそのまま必死に歌っている感じ。高音出るか出ないかのせめぎ合い、技術というよりは感情で乗り越える、そこにカタルシスを感じる。一種の脳内麻薬だ、

感情的・ドラマティック的展開・ピッチギリギリ

この三要素が、僕が思わず聴いてしまう曲の特徴〜。

あ〜ねむい。

 

壁のらくがき

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街もすばらしい山もすばらしい。
閉じたシャッターの連なりにも、美しさを感じることだってある。
路地裏の行き止まりで口笛を吹いてみる、そこには誰かの描いた文字の断片が、また違う誰かの断片とくっついて新しい文字となっている。
その先の、何もない光に手を伸ばしてみる。光の、その先の。

I am walking tremendously The graftiti on the Wall is the truth. 

 

 

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例えば、30万円で作品が売れたとしても、せいぜい2〜3ヶ月の生活費にしかならない。その間に画材を買うとしたらその期間を削らなきゃならない。
そしてその後にまた同じように作品が売れるとも限らない。
そもそも30万の値をつけて販売できるキャリアは限られる。箔もない歴もない、そんな人のが大多数の中で、一つの価値だけを頼りに鑑賞者やコレクターとだけ相互に信頼関係を築いてもいずれ先細りしてしまう。
だったら更にいくつも引き出しを用意し、惜し気もなく披露して、強固な自分だけの場をつくっておかないと死ぬ。表現者的に。
でもそんな状態を常に維持し抱えながら制作をするのはあまりにしんどいし、ストレスは時に動力源にもなるけど、やはりストレスは荷物。本来やりたいことの純度が下がる。
ま、結局それらを「金」の話として捉えて動かそうとするから面倒になるだけで、ようは「生活」の話。稼ぐことを考えるのではなく、連なっていく日々の朝と昼と夜を考える。その中にある友達との馬鹿話や、恋人との心地よい静寂、動物の鳴き声、テレビのコマーシャルまでを考える。想像し、自分自身とどう付き合っていくかの算段。
誰にも求められずとも勝手気ままに芸術を作るし、人が求めることを商品として提供することも互いに影響し合いながら同時並行していく。
その両輪を成立させていくことが自分の永遠重要課題。

 

 

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”私は街の片隅に住んでいます。私は友達と一緒に駆けています。

高いところから見下ろすと、風が吹き、大きな音や匂いがします”

 

鼠が何を思い、何を考えて行動しているのかなんて、一体全体分かりようもないですが、絵にして設定を与えることで恰も感情があるかのように振る舞える。楽しい遊びだな、ほんと。

 

嘘か実の浪漫

TENET。

 

クリストファー・ノーラン監督の最新作。

速報予告を見て以降、ずっとずっと楽しみにしていた作品だから期待値はかなり高かった。

公開されてから何度かチケットを取ろうとしたものの、予約しようとした時には既に満席。そんな状態が1週間続いた頃、やっとこさ新宿TOHOシネマズにて、IMAXレーザーでの上映回チケットを取ることができた。

 

IMAXの画面はやたらでかい。

まるでその空間ごと包み込んでしまうかのように湾曲していて、地面から天井まで目一杯引き伸ばされているようでもあった。偶然にも、以前IMAXで鑑賞したのもノーラン監督の「ダンケルク」だったことを思い出す。

 

上映が始まる。

冒頭から呑まれる。

おおよそ3時間の上映時間が気にならないくらい、没入したままエンドロール。

 

確かに、これは前知識なしの初見では難しい。そう思った。

この世界独自の用語、映像の切り替わり、そしてノーラン監督らしいロマンチックな演出によって、要所要所で不明な点が出てくる。しかし物語は遠慮なく進む。というか戻ったりもする。だからややこしい。だけど面白い。否応無しに目を奪われる。

 

途中までは振り落とされないように必死で台詞の端々を注視していたり、頭の中で物語の順序を組み立てながら観ていたけど、この作品の楽しみ方はそうじゃないのかもしれない、、(少なくとも自分は)と思ってからは肩の力をぬいて観ていた。

そうすると、ただただ圧倒的な"映画力"がそこにはあって、いい作品だなあと単純に思わされる自分がいた。

 

「TENET」を観てから3日経った現在、まだ余韻が残っている。

というのも、この記事を書いている間ずっと、ルドウィグ・ゴランソンによる本映画のサントラを聴いているからで。これがめちゃいい。

観ている時から流れてる音楽のかっこよさに鳥肌たっていて、今回もハンス・ジマーいい仕事するなー!なんて思っていたのだけど、クレジットを見ていたら全く違う人だった。

(ハンス・ジマーはノーラン作品ではお馴染みの作曲家で、バットマンシリーズからずっと映画音楽を担当している。でも今回は違うと、)

 

ルドウィグ・ゴランソンはスウェーデン生まれの36歳。

映画音楽では「ヴェノム」や「ブラックパンサー」などにも参加している。他にも多数手がけているけど、この三つだけでもなんとなくの共通項がある気がする。

ざっくりとした感想になるけど、心の奥底から鳴ってるような音を使う、そんなある種の不穏さや不気味さが特徴だと思った。

最近レンタルで「ミッドサマー」を観たんだけど、あの祝祭の舞台になってるのもスウェーデンで、たまたまなのかもしれないけど、国の宗教観に則した底通する意思みたいなものを感じた。(まったくの適当なんだけど)

 

ブログやYouTubeでは解説や考察が沢山ある。

『これを見れば〜』『ノーランが本当に伝えたかった〜』『完全解剖〜』といった具合の見出しで人を呼び込んでいる。

時にはそういうのを読んだり見たりして知見を深めるのも楽しいけれど、今回の「TENET」はなんか、観たままでいたいなと思った。

他の人の"見方"を入れなくても、自分と作品との対話だけで充分満たされていて、そこに、これが真実です。って上書きされたくないなあと。

もちろん不明な点はあって、どういうことなんだろうってモヤモヤもするんだけど、そしたらまた観ればいいだけで。もしくは思い返しながら自分でチャート作って謎解きみたいに考えてみてもいいし。まあこの未解決なままも楽しかったりする。

 

あとすごくエヴァみたいだなと感じた。

映画を観た帰り道、この感覚は何かを観た後と似ているなとグルグル考えていたら、ふっと着地した場所が庵野さんの作品で。

オタク的な偏愛のごった煮ような、他人からしたらよくわからない事の中に強固な視覚的・聴覚的な快楽が組み込まれてある。

庵野秀明監督が幼少期に見たウルトラマンをベースにエヴァンゲリオンを組み立てたとして、ノーラン監督は過去の膨大なSF作品やスパイ映画への愛情と敬意と遊び心をもって今回の映画に臨んでいたんじゃないかと。

そこへの肉付けは神話、哲学、物理等色々あれど、私的で詩的な詰め込み型のエンターテイメント。それをどう仕上げるのかの違いであって、感性は同じもののように思う。

おもしろいよなー。単純にも複雑にも受け取る人によって変化できる作品。

 

 

ここまで、ネタバレは一つもしていないはず。

これから観る人のためにも、あくまで個人の感想の範囲を出ていないと思う。

 

「TENET」

逆から読んでも、

 

鬱る

 

どうでもいいことをどうでもいいままにして

どうとでもいいようにする

なすがままなされるがまま

なしとげることを念頭にしないで道草の坩堝へ飛んでいけ

なんとでも言いきることができる箱庭で

 

棒人間と棒人間の隙間

美醜を混濁

言葉がおもしろい

 

依存から依存へ

今日も昨日も一昨日も

初めて好きになった人から人へ

人は移る

その度に少し鬱る

 

音楽はずっと流れているから

たとえ泣いたとしてもわからない

充電しているのに満たされないこころ

 

いろはにほへとちりぬるを

夜な夜な

静けさとは反対の自我に嫌気がさすも

耳をそばだてるはわたし

 

 

drawingやらpaintingやら

どうもこんにちはこんばんは。近藤です。

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ブログの更新頻度を緩やかにしています。前のように二日に一度のペースでやっていると、なかなか他のことを考えたりすることに時間を割くことが難しくて、試しに一ヶ月休んでみたら気持ちがいくらか楽だったので、もうしばらくはこの不定期でゆるやかな頻度でやっていこうと思います。

 

さて、そんで昨日いよいよネット上での作品販売を始めました。

https://www.instagram.com/daisuk.kondo/

 

初めての試み。どうなっていくのか。

値段つけて載せて「はい、あとは購入されるのを待つだけ」なんてつまんないことにはしたくなくて、観てくれる人たちと一緒に場を作っていけたらいいなと考えてる。

具体的にどう作っていくのか、それはまだ見えていないのだけど、提示する側とされる側とに単純に分断して役割に落ち着くのではなくて、相互にゆるやかに影響し変容しながら更新していく場になれば。まずはインスタグラムから、気軽に続けていく。

 

継続、そして循環。

自分の一日一日の流れ、一週間の繰り返し、一ヶ月毎の変化、一年ずつ歳を重ねている実感の中で何ができるのか。何をしたいのか、何をしようとしているのか。

まだまだ殻の中にいる。そこを突破できたときにやっと笑える気がする。

その時は誰かと笑い合いたいな。

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うだうだ回です

いつもと変わらない朝が、秋の到来を告げているのだと、外で鳴く虫の音で気がつく。

暑苦しい日差しから、どことなく爽やかな光に変わったように感じる。好きな季節だ。

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ネットには日々、ドローイングやメモやスケッチやペインティングやらを載せている。呼び方とかは別にどうでもいいから、その時の気分で変えている。

 

Twitterは速報、リアルタイムだって感覚があるけど、その使い方をしていると身体に無理が生じることを徐々に気付く。アカウントを作ってそこで描いた絵を載せ、少しでも活動の糧になればと思いながら、その参加の仕方に悩み続けていた。

 

ある時はタグを入れてみたり、ある時は簡潔にしてみたり、またある時は逆に文章をこさえてみたりもしたけど、どうにも思うような反応が得られない。

得られなくてもいいじゃん!っていう強がりを盾にもしてみたがその裏打ちが弱いため、すぐに壊れる。やっぱり提示している以上、ある程度の評価は欲しい。しかし数に縛られるのもダサいと思う自分がいて、なんか癪にもさわる。

 

このジレンマを抱えてる表現者は数多いだろうし、だからこそ滅茶苦茶なものが生まれにくくなっているのかもしれないな、とかも考える。

 

まあだからもっと適当に付き合ってみよう!という感じで今まで散々上げてきた絵を再編集して上げてみたら、これがなんとヒットして。

見られていたようで見られてなかったというか、そりゃ数ある投稿の中で流れゆくコンマ何秒が記憶に刻まれるはずないよなあと。

だったらもうどんどん、自分では既視感あるけど、昔描いた絵を見易いようにして上げればいいんだと、とりあえずは。

絵として面白いと思ってもらえるものが今までにも散々あって、単純にこっちからのアプローチ不足なだけで、もがいてたつまずいていたものが無くなったような感じもある。

 

この活動?といったらいいのか、やり方を見つけたのが7月の初めくらい。

適度に承認欲求を満たせることができて、かつお手軽。

 

だがしかし、、、

 

だがしかしなんだよなあ、そういう舐めた態度はしっぺ返しがくる。SNSはどれだけ見下して舐めた態度とってもいいけど、その先にいる人達にまで疎かにするといけない。ただの中身のない拍手になってしまう。

そこを逃さずに幾重にもフックをかけて強固なファンにしていかなきゃならない。

手軽さにあぐらかいて、いつしかその快楽に囚われてしまってつまんなくなってしまっては元も子もない。むしろそうなりかけているかもしれない。今年まだ活動らしい活動をしていない。

 

『自分が楽しく生きていればいい。遠くの誰かじゃなくて、近くの人と。目立っていなくても派手さはなくても、他人からしたら日々繰り返しのようでも、そこにただ"生活がある"ということだけで充分に立派だ。』という見方もできる。いやむしろそれが基盤にないと生きるのが辛くなる一方かも。

 

だがしかし、

 

だがしかし、

 

 

いつも自分の頭の中で、数少ない友達が語りかけてくる。「そのままでいいの?」と。

 

現状維持が一番困難です、良くも悪くも。

 

いろいろあった

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konnichiwa,konbanwa.

kondoudesu.

 

お久しぶりです。近藤です。

およそ40日ぶりの記事更新です。

 

皆さんお元気でしたか?

40日といえどもこの間、雨は止まず降り続き、かと思えば急に猛暑に見舞われ、総理大臣は変わることになり、大阪万博のロゴが発表され、相変わらずコロナちゃんの勢いはあるからマスクは必需だし、でもそれなりに緩和されてきたこともあったりして、徐々に徐々に賑わいが戻っているような場所もちらほら。

自分は人と飲みに行ったりすることが極めて少ないのだけれど、それでも、駅近くの飲み屋の前を通り過ぎる時、そこにワイワイガヤガヤしている人の姿を見ると、なんだかいいなあと思ったりもします。 

暑い夏に影は濃く、吹く風は癒しを運んできてくれる。

喧騒を避け、自分の歩くときの呼吸くらいは忘れずにいたいものです。

 

   

先日、映画館で『もののけ姫』を観ました。

ジブリの作品、全部観たわけではないけれど、その中でも一番好きな作品。

金曜ロードショーで、編集されたものを何度も断片的に観たことはあっても、フル尺のものをちゃんと観たことはなくて。(それでも一番だって言えるのは、理屈じゃない作品の純粋たる魅力なんだろうな。)

いまこの上映してる機会にせっかくだから、その”一番”という感覚を、より強固なものにしたくて行った。

 

akkan。

それは極端な言い方のようで、でもそんな感想当たり前とも言えるし、初めて『もののけ姫』という芸術に触れた。そんな気がした。

もう素晴らしすぎて、素晴らしすぎて、

メッセージとかじゃなくて、「この世界の、この人物や動植物たちの物語とはこうなんだ。」というものが作られていて、そのことにただただ感動するというか、そんな感動さえ入り込む隙間のないくらいに存在する美しい映像と音と時間。

 

(数少ない本気で恋したアニメキャラの1人、大画面のサンは最高だったな。)

 

で、そのもののけ姫の制作ドキュメンタリーがあることを知り、しかもそれが渋谷のTSUTAYAでレンタルされているということで借りに行ったわけです。

もののけ姫はこうして生まれた』という題で6時間40分にもなる大作。

3本に分けてVHSでしかレンタルされておらず、仕方ないのでビデオデッキも一緒に借りてきた。まだ1本目しか観ていないので、残りの2本が楽しみ。

 

ついでに庵野秀明監督の『式日』も借りて観た。

原作と主演の藤谷文子さんの魅力がすさまじかった。

生き辛い現実に直面しながら、でもそれゆえに目を逸らすことができない、才能が溢れてしまっている人はどうにも好きだ。関わり合うことが困難だとしても、それでも。  

 

とかく笑顔がかわいい。

 

 

 

 

 

 

9月になりました。