それを愛と呼ぶことにしよう

いつもそうだ。

 

展示やイベント事の前の日は眠るのを拒否してしまう。

その結果、大事な初日に半ばフラフラになりながら「ああ、ちゃんと眠っておけばよかった」と後悔することになるのは、もう何度と繰り返していて分かっているはずなのに。それでもやってしまうのは、そのストレスを抱えながらの状態じゃなきゃ、余計なことばかり考えてしまって、よっぽどそっちのほうがストレスで、とても怖いからなのだと思う。

 

だから今回も夜通し絵を描いていた。

不安を払拭するように、自分は大丈夫だと言い聞かせるように。そしてその一時の安心感は、新しく線を引くたびに、強い色を塗るほどに自分の心に鎧を着せてくれた。

 

折よく今回は一人ではなく、高校時代からの友人が立ち上げた「nisai」というブランドに声をかけてもらい、合同展示という形なので幾分かは気が楽だった。ましてや「近藤さんは描いてきた絵がたくさんあるから壁一面を好きに使っていいよ」という、非常に自由度の高い場を設定してもらっていたので有難くもあった。

 

その期待に少しでも応えたい。せっかくの機会に自分なりの花を。

とにかく、せっかくの場なのだから客だけじゃなくて、提供する側にも楽しんでもらいたい。そう思って、今回の展示の為だけの絵を描くことにした。

もうツイッタにもインスタグラムにも投稿しているし、当然会場に来てくれた人は実物観ているから知っている人もいると思うけど、「青年」という題の絵。

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20代の危うげて壊れやすくて、それでいて人の温もりを欲して止まない感情の姿を写したラリー・クラークの写真集「TULSA」。古本屋で働いている時に知ったこの写真集の表紙を、いつかのノートに描いていたことを思い出し引っ張り出した。

そのラフな線画に色をつけていく。なるべく色とりどりになるように、それでいてちゃんと、今回展示する絵の中で導入としての役割をもつように。

ブランド名「nisai」の由来は”二彩”と”青二才”のふたつ。

その内のひとつ、”青二才”の意味はデジタル大辞泉によると「経験の浅い年若い男。あざけりや謙遜の気持ちを込めていう」とある。

そこに先のラリー・クラークの写真集と共通するものを感じ、英文に変換してブランド名と共に絵の中で組み合わせた。

 

で、ああいいう絵が出来たわけだけど、それが果たして意図した役割を今回の展示の中で担っているかというと、ん〜どうだろう。というのが自分でも正直な感想。悪い絵じゃないけど、ちょっと味付けが濃かったかもしれない。でも、想いを込めたことは間違いないので、結果オーライ。

 

 

なんだかんだ物事はいつも、始まってしまえばやらなきゃいけないことや、人と接したりすることであっという間に時間は過ぎていく。

20時閉館。レジ締め、入金を終えて電車で帰宅。

今日は自分へのご褒美に!と思い、買って帰った唐揚げ弁当。

ただ流しておくだけでも安心するテレビ番組を観ながら食べる。

相当眠気にブレーキをかけていたのか、唐揚げを口の中へ放りこんで咀嚼したまま寝落ちしていた。10分くらい寝ていたのか、ハッと目が覚めて口の中に食べ物があることに軽く動揺した。

テレビの中では相も変わらず、どうでもいいやりとりが行われていた。

 

 

あの日にかえる

27才の時に施設に入ってから20年もの間、ずっと肌身離さず持ち続けていた写真。

そこには両親の姿や、両親と行った旅行先の景色なんかが写っている。

朝起きた時、夕食後のほっと一息した時など、ずっとその写真を触って見つめながら楽しそうに過ごしていたらしい。ベットの上、クローゼット、箱の中など、何度も写真の置く場所を移動させているうちに四隅はボロボロになり、色も褪せていく。箱の中に入れてある時は、上下にかき混ぜながらその時見たい写真を探すので傷みは増していく。それでも毎日毎日手にとって、飽きるまで触って、思い出に浸ってたのだと思う。

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1970年生まれ。

杉浦篤さんの写真を見た、昨日。

3331 Arts Chiyodaにて開催されていた展示『ポコラート世界展「偶然と、必然と、」』を鑑賞した。https://www.3331.jp/schedule/005367.html

企画概要や出展者はURL先で見てほしいのだけど、とにかく杉浦さんの写真が印象的だった。

 

その、まず全体を通して言えるのは、「そうせざるをえない」という根源的な人間の欲望や、それに準じた感情や行動の軌跡で。それぞれの環境ゆえに生まれてくる色や形、やり方、作り方、見せ方あるのだけど、でもその中で杉浦さんの写真が唯一だったのは、”何かを作ろうとしていないこと”という点で、他にはない光を放っていた。

だからそもそも作品ではなくて(とすれば他の人も概ね”作品化”の意識はないままにやっていると思うのだけど)、言ってしまえば単なるモノの経年変化であって、長く生活していれば誰しもがお目にかかる現象であり、古い写真を長年手元に取っておくことも特別珍しいことではない。

 

なのに胸を打つ。感情がグググっと湧き上がってくる。

それは、アウトサイダーアートの括りに潜む、純粋無垢な物語を無意識的に期待しながら観ているからかもしれないし、余白や照明による演出に、まんまとしてやられた感情なだけかもしれない。

けれどその可能性を差し引いても余りある、実物の存在感と会場出た後も続く余韻。

やっぱりそれは一人の手の中で在り続けたからこその痕跡と、その時間があるからで。

アンティークでもないし、災害によって汚れたわけでもない、ご利益がある置物みたいに皆の手で愛でられたものでもない、個人から個人にむけられた愛撫。

 

『愛撫とは、 優しく、あるいは愛情をこめて、触れたり、さすったりすること。 なでさすってかわいがること。 なでんばかりにかわいがること。』Wikipedia

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この気持ちは一体なんだろうなーと整理つかずに今も書きながら考えている。

思いつくだけの言葉で表そうとするも、かえって文章がとっ散らかるばかりでままならない。なのでここら辺で。記録。

 

a memory from summer.

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うだる暑さ。

夏の思い出、手をつないで、歩いた海岸線〜♩

なんて思い出、俺にもあったっけかなーとしばらく頭を回転させてみたけど、はてさてどこにも見当たらなかった。

 

そんで今年は「夏祭り」なんて言葉すら忘れてしまうほど、花火も、屋台も、浴衣姿も見かけないまま秋になろうとしている。(暦の上ではもうとっくに秋だけど)

 

「コロナ」も「緊急」も「事態」も「宣言」も「自粛」も「感染者数増加」も、もう聞きすぎて見すぎて何がなんやらという感じだけど、それでも手に消毒はするし、間隔は空けるし、過剰な咳やくしゃみには否応無く反応してしまう。動物であるが故の生理作用、私は貝になりたい。貝も動物でした。

 

...はあ。

 

文面だとしてもため息は嫌な気持ちになるよね。ごめんなさい。

ま〜、今日も相変わらず絵を描いててさ。よく飽きずに毎日何時間もやってるなーって思うのだけど、これがやればやるほど、次はああしたいこうしたいって考えが浮かんでくるから不思議でね。

でも一つの絵に対してあれもこれも手を入れると、そのどれもがつまらく見えちゃうから塩梅も大事で。だからやっていても常に次の絵のこととか考えてると、あっという間に時間が経ってるってことなんだよね。そういった時間間隔の長短ってのは、”ジャネーの法則”によると、年齢の逆数に比例するってことなんだ。つまり年をとればとるほど意識下にある関暁夫みたいに書こうと思ったけど難しい!!!!!

 

あの独特なしゃべり口調、テレビで聞こえてくるとつい真似したくなるけど、意外と難しいんだよな。あんなスラスラと異世界の言語出てこない。

 

 

うだる暑さ。

何年か前、当時付き合っていた彼女に、仕事から帰ってきて部屋に入ったら「おかえ..足くさっ!うっわ、フローリングに臭いうつるから歩かないで!!あっちいけ!」って怒鳴られたこと思い出した。

夏の思い出。

 

今日の出来事

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朝起きて嗽をして、水を一杯飲んでから歯磨きをする。

ごはんを食べる時間はなく、支度をして、せせと家を出る。

雨降り、湿度があるからか、うっとおしい暑さ。

歩きスマホの大群、ちょっとしたマナーさえも守れない思考力のない空っぽの姿。

毎日毎日。

 

溜め込んだペットボトルとビンと缶を捨てに行く。

受け取られなかった粗大ゴミの鏡が放置されてある。

カバーをし忘れた自転車のサドルは、まだ少し湿っていた。

 

冷房をつけないと生ぬるい風。

脂汗を拭くシート。

氷を入れて飲む水はうまい。

 

駅前で声をかけられる。

「あんた!私のデータ盗んでるんでしょ!」「ねえ!そこの傘持ってる人!」

「白を切ろうったって無駄だからね、私は分かるんだから!」「あの人泥棒です!」

最初は誰かと電話をしているんだろうと思っていたけど、どうにもその声の向けられている方向が自分のような気がして視線を合わす。と、矢継ぎ早に上記の言葉を浴びせられた。困惑。

「盗んでいないですよ」「待ち合わせしているんです」

「すみません、勘違いされてますよ」

どの言葉も効力をもたず、ただただ一方的に投げつけられる時間を5分ほど過ごした。

 

帰り道にあるセブンイレブンとローソンでは置いてある商品が違うので、その、”なにが有ってなにが無いのか”を比較するのが楽しみでもある。

 

夕飯は素麺。

 

松坂桃李オールナイトニッポン」の、あまりの盛り上がりのなさに爆笑する。

人柄の良さは全面に感じられるものの、これといってオチのない平坦なトーンの話が続く2時間。スラムダンク映画化、遊戯王カードのレア見分け裏技、APEXでの怖い人。。。あれ、映画「孤狼の血」の番宣は?!

 

最近では他にも「ウエストランドのぶちラジ!」や、「極楽とんぼオレたちちょこっとやってまーす!」といった楽しいラジオ番組を聴いている。

 

絵を6枚描いた。

 

特技はテーブルマジック

「全部、ぶっ壊れりゃいいんじゃ」

そう言い放つ鈴木亮平の演技にもう魅了されっぱなし。

 

孤狼の血Level2を鑑賞してきました。

期待値はかなり上がっていたけど、それをゆうに超えてくる鈴木亮平のヤクザたる堂々としたボディーランゲージと表情、声。絶対的な反道徳的悪、故にエンタメ。

 

前作では役所広司の圧倒的なやさぐれ感と広島弁により、一気に物語に集中せざるを得ない空気感をつくりだしていたけど、今作ではそれが鈴木亮平だった。

 

もちろん松坂桃李も良い。前作では特に、前半から後半にかけて周囲の出来事に翻弄されながら次第に役のキレ度も上がっていって、それが脳内興奮放出に繋がっていた。真面目が崩れていくカタルシス。暴力映画でありながらも、一種の浄化作用があった。

でも、観ればわかるけど今作は鈴木亮平が圧倒的だった。

他にもヤクザ映画にはお馴染みの、宇梶剛士、寺尾進といったベテラン強面俳優が何人か出演していたけど、その誰にも負けず、というか身体の奥底から出てくる得体の知れない”何か”に恐怖するっていう点では唯一だった。

 

ネタバレもなにも特にない作品だと思うけど、それでも内容を話しすぎるのはマナー違反だし、なにより観れば分かるし。

この前放送していたドラマ「レンアイ漫画家」では、人付き合いが苦手な引きこもりの漫画家を演じていて、前髪も下ろしていてめちゃイケメン感あった。だからか、余計にそことのギャップで驚いたってのもあるかも鈴木亮平

そもそも「HK/変態仮面」とか「俺物語‼︎」とかで変化自在なイメージはあったものの、今回の作品を観て、よりその印象は強くなった。

 

映画鑑賞後何回も「全部、ぶっ壊れりゃいいんじゃ」って、マスクの中で小さく真似しながら帰った。そのくらい影響力ある鈴木r

あと余談で、「極道」ってのは本来仏教用語であって、今一般的にイメージされる素行の悪い姿・形態とは違うそうで、道を極めた徳の高い僧というのが本来の意味だそう。

なんか、元をたどれば仏教用語で、今使われている意味とは違うってこと多々あるから言葉っておもしろいな〜。

 

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またそのオチかい

高所恐怖症である。

 

高層ビルを下から見上げる時、大きな川に架かる橋を渡る時、小高い丘を登っている途中に映る遠くの景色。もっというと、2mくらいの壁をよじ登った時に見下ろす地面との距離でも足がすくんでしまうことがある。

小さい頃からなので今更どうしようもないのだけど、もう一人の自分がその怯えている姿を見て「情けないなー」と思ったりもする。

 

前にも、山の中にある神社に行った帰り、結構な傾斜の階段にビクつきながらも、さすがに目に見えて怯えている様子じゃ格好がつかない。一応そのくらいの羞恥心は持ち合わせているので表面上はなるべく気丈に振舞っていたのだけど、やっぱり目の前を向くほどの余裕もない。高所あるあるの強風も相まって身体は硬直。

考えて考えた結果、足がつった状態を演出しながら降りるという案を採用した。 

「いっ、、た...。っっきついな、、っつ!」

といった感じで、自分は今、仕方なくゆっくりにしか降りることができない、普段だったらすたすたと降りているのにチクショー悔しい!もっとこの景色を楽しみたいのに〜!、といった具合に過剰な表情と声で周囲にアピールをしていた。

その横を通り過ぎる女の子と犬。

足早に駆け下りていくその姿に、少し遅れてからその子の両親が「お〜い!あぶないぞ〜ころぶなよ〜笑」といった感じで呼びかける。「まったく、あの子ったら元気が有り余ってるのかしら笑」といった優しい声が聞こえる。微笑ましい、会話。

 

「.....。」

 

「っっったぃなあ、、っつ!っきつー!」

夕陽が沈もうとしていた。

手すりにはうっすらと手汗の跡が残り、この後に触る人ごめん!と思いながら、それでも、必死だったのだ。

周りがどうとかじゃない、これは自分自身との勝負なのだ。

 

残すところあと10段といった所で急に治る足。汗をぬぐいながら景色を楽しむ。

あー来てよかったなー、最高。

そこには、暗くなった住宅街の入口と、真っ黒な影となって浮かび上がる大きな鳥居があった。

 

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初体験

小学5年生の頃、山の教室なる行事があった。

静岡市の山の中にある宿泊施設で、一泊二日の体験学習をするというもので、同級生の皆と一緒に料理をしたりハイキングしたり、小学生の時分からしたらそれはそれは楽しい一大イベントだった。

 

日中に沢山活動をし、夕飯を終えて疲れて部屋に戻っても枕投げでまた盛り上がり、就寝の時間が近づいているのも関係なく、普段の学校とは違う雰囲気にワイワイガヤガヤは収まる気配がなかった。

なにより、この後に控えているお泊まり恒例の”好きな子誰?”タイムに内心そわそわしていた。

 

22時を過ぎ、巡回の先生の指示で皆で歯磨きをするため手洗い場へ向かった。

 

山の教室というだけあり、窓の外は林になっていて外灯もなく、夜になると昼間歩いていた道も真っ暗で、目を凝らしてもどこにあるのか分からないほどだった。

秋も中頃になり冷え込んでいたせいか急に寒気を感じ、早々に歯磨きを済ませて部屋に戻ろうとした時、友達の一人が「あれ?なんだあれ」と窓の外を指差していた。

その指の先、覗くようにして下を見ると、自分たちのいる建物の壁沿いにぼんやりと、人の影みたいなものがあるのが分かった。

「おわっ」

誰かが驚いて声を出したのにつられ、自分も思わず窓から離れた。

それでも一瞬のうちに焼きついたのは、それが学校の先生でも、施設の職員でもないという確かな直感だった。真っ暗ではっきりとは見えないまでも、窓からこぼれる薄明かりの中、こちらをじっと覗き返すような、そんな気味の悪い"何か"を感じたからだ。

 

消灯後も布団に潜ったまま、なかなか寝付くことができずに朝を迎えた。

 

さっさと布団を畳んでリュックの整頓をしている人や、まだ寝転んでふざけあってる人たちもいたりして、まるで昨夜の出来事は夢だったかのように日常だった。

手洗い場には数人がとりとめのない立ち話をしていた。窓からは陽の光と涼風が入り込み、チュンチュンと鳥の鳴き声も聞こえてくる。なんとも気持ちのいい光景に、少し、安心した。

 

明るければ平気。 そう思い、昨日の指差していた場所をもう一度覗いてみた。

誰もいない。もちろん人影らしきものもない。しかし、草木が生い茂るその中に、何か赤色の物体が見えた。明らかに周囲の景色からは浮いていて、遠目からでも分かる人工的な形。よく目を凝らすとそれは、普段神社の入口で見慣れているものとは違う、とても小さな鳥居だった。