キーンコーンカーンコーン

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目がさめて、朝がくる。

隣の部屋からは、めざましテレビの音が小さく流れている。

 

あれから何日も部活を休んだ。

毎朝、「今日こそ行かなきゃ」という気持ちではいるのに、もう一方の心がそれにストッパーをかける。なんでこんなに休んだんだよ、ずる休みか?という仮想の言葉と、それに付随して、ありもしない冷ややかな陸上部員の顔を勝手に想像して怖くなる。

はじめのうちは「まだ体調悪いの、大丈夫?」と声をかけていた母親も、そのうちに「ねえどうしたの?部活行かなくていいの?」という心配と共に、突然に部活を休み続けている息子に対して、どういう言葉を選んだらいいのか困惑しているようだった。

自分でも自分の行動に整理がつかない、整理がつかないままに陽は昇り、落ちていく。そのことにまた恐怖しながらも、でもどこかで平穏を装っている自分もいた。

 

両親は、小学2年生のときに離婚した。

行きつけのスナックの店員と父親が浮気をし、親権は母親が持った。

自分と、三つ下の弟が一人、母の手ひとつで育てていくには、日中の仕事だけではなく、夜も働かなければ生活はできなかった。今も昔もよく聞く話だけど、離婚した後に子供が成人するまで、滞りなく養育費を払い続ける元親はごく僅からしい。

 

毎朝ループし続ける裏腹な気持ちと、母親からの言葉と視線。

朝は支度してすぐに仕事に出てしまうので、母親とは簡単な挨拶でやり過ごす。

仕事から帰ってきて夜の仕事に行くまでの間も、「練習キツくてさー、夏休み終わったら顧問の先生に謝りに行くよ」ってな調子で誤魔化していた。果たしてそれは誤魔化しになっていたのか、わからないけどとにかく心配をかけたくなかった。長男である自分がしっかりしなくちゃいけないのに、こんなの負担でしかないのに、現状は変わらなかった。

 

ズル休みをしているという罪悪感からか、夏休みの間、一歩も家から出なかった。

もし外に出て、迂闊に陸上部の誰かと出会おうものなら、なんて顔をしたらいいのかわからない。それに、自分にはその権利がないと思い込んでいた。ただひたすらに引きこもりだった。

 

そして夏休みが終わった。

学校は行ける、大丈夫。部活は休んでしまったものの、クラスの大半はその事実を知らない。行ける、大丈夫、行ける、大丈夫!何度も何度も言い聞かせるようにして唱えた呪文。敵わないと思ったままでは叶わない。根拠なく信じ切る無謀さが必要な場面もある。

制服を着て、リュックを背負い、玄関まで足を運んだ。

なのにそれ以上進むことができなかった。

情けない自分に泣くこともできない。母親の顔が目に浮かぶ。

遠く、中学校のチャイムが響いていた。

 

 

ある練習日の朝、

不登校になった。

 

 

中学一年の頃、陸上部に入っていた僕は、夏休み中にある早朝練習のために毎朝5時に起きていた。

時間も時間なので朝ごはんという気分でもなく、早々に支度をして家を出る。まだ薄暗い中、県道を走る大型トラックを横目にしながら必死に自転車を漕ぐ。

夏休み中の校庭は他の部活が使用するということで、陸上部は同じ静岡市内にある「西ケ谷総合運動場」という場所まで行かなければならなかった。

もちろん送迎バスなどないから現地集合の現地解散。家からおよそ一時間半の道のりを往復する毎日だった。

朝練の集合時間は7時。少しでも遅れようものなら、顧問の先生が木刀を片手に待ち構えている。漫画のベタな設定のようだが事実。今の時代では考えられないようなことが、ほんの十数年前までは当たり前に存在していた。

 

そもそも、陸上部に何一つ魅力を感じていなかった。

遊びとして身体を動かすことは好きだったけど、競技としてのスポーツにはさして興味なく、かといって帰宅部になるのも気が引けたので、同じ小学校の友達が入っていたからという理由だけで陸上部を選んだ。

入って初日に顧問から「お前は体型がガッチリしているから砲丸投げをやれ」と言われ、そのまま2人しかいない砲丸投げチームへと案内された。一緒に入った友達は中長距離走のチームにいて、大勢いる同級生や先輩たちと早速打ち解けているようだった。

 

総合運動場での練習は、まず最初に全体のストレッチから始まり、次にコースを何周か走ってウォームアップをする。それが終わって各チームに分かれ、専門の指導に入る。

砲丸投げチームは、フォームをまず身体に馴染ませることと、あとはひたすら投球の数をこなす時間に当てられた。当時はまだ室伏広治が現役で活躍していたのもあって、「ア゛ア゛アアアアア!!!」とか言って真似しながら投球練習をする日々だった。

せっかくの夏休みなのに、汚れてヘトヘトのまま自転車で一時間半。さしたる信念もなく選んだが故に揺れる心。思えばこの時にはもう、疲れに混じって潜り込んでいたものの正体が徐々に大きくなっているのを、自分でもわかっていたのかもしれない。

 

 

ある練習日の朝、少し熱っぽいなと思って体温計で測ってみたら37℃を超えていた。

元々体温が低いので、大事をとってその日は休むことにした。

部活に入ってから初めての休み。とりわけ何をするでもなく、安静にして過ごした。

次の日、熱は下がっていた。

よかった、いつものように支度をしなきゃ、と心では思いながらも、なぜか身体が動かない。むしろ時間が迫り、そろそろ家を出ないと!と思えば思うほどに強く拒否している自分がいた。このまま今日も休みたい、まだ熱があると嘘つけば大丈夫、大丈夫もう一日、もう一日だけ、、。

 

今思えば、ほんのちょっとズルしただけのこと。きっと誰にでもある出来心。

なのにこの日を境にして4年間、中学・高校と不登校生活を続けることになるとは、まだ知るはずもなかった。

 

 

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ナンパする人キャッチする人

こんにちはこんばんは。

この度、ブログのアクセス数が7000人を超えました。

いつも読んでくれている人ありがとうございます。

そして来月、11月21日でこのブログ続けて二周年になります。ひとまずはこのままのペースでその日を迎えたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

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ある日のナンパ。

隣で待ち合わせしていた女性。そこに近寄る男性。

「急に話しかけてごめんね、いまひとり?俺さー、さっき美容院で髪切ったんだけど短くされすぎちゃってさ。ねえこれ見てみてよ、やばくない?」

「・・・。」

「短くしすぎでしょ!ってつっこんだら美容師さんもめっちゃ苦笑いしててさー」「・・・。」

「ちょっと一回だけでいいから顔上げてくれない?めちゃくちゃへこんでさー、お姉さん的にこれはアリだと思う?」

「・・・。」

 

される側からしたら迷惑だろうし、怖くもあるだろうし、加えてつまんないやつに捕まったらそれはもう最悪の時間だと思うけど、こんだけマッチングアプリSNSのDMでの出会いが当たり前の中で、アナログな手段とる人もいるんだなーと思った。

 

場所を移動して友達と話していると、隣にいた二人組の女性にまたもやナンパ。

「すみません...。ちょっと訊きたいんですけどいいですか?」

「...?はい」

「あの、僕ら関西から来ていて東京詳しくないんですけど、ここから京王線に乗るにはどうしたらいいですかね」

「私たちもわからないのですみません」

「あっいやすみません、実は俺ら医者やってて。ほら、LINEのプロフィールにも書いてあるでしょ。ね、関西住みでもないんだけど、すみませーんお姉さんたちに声かけたくて嘘ついちゃいました!」

「...そうなんですか」

「そうそう!で、いま俺らアンケートとってるんだけど、それにちょっと協力してもらっていい?」

「はあ...?」

 

アレがだめならコレ、といった具合に次から次へと設定が変わっていく話題。

こんなのもう勢いとノリだけの言葉なのに、それを続ける男二人組。なにがそんなに彼らを駆り立てるのか。たまんないよな、こんな面白さえもまともに提供できない奴に楽しい時間奪われるなんて。せめて設定くらい固めて話しかけてこいよって、自分があの時の女性の立場だったら内心罵倒しているだろうな。

 

声をかける、ってのでついでに思い出したけど、キャバクラや風俗のキャッチで不思議なのが、その通りの入口では「お兄さんどうですか?3000円で」とか、「お疲れ様です!今日可愛い子いますよ!」なのに、無視して先に進むにつれて「おっぱい」とか、「おっぱいおっぱい」とか、とにかくサブリミナル的に簡略化したワードだけを投げてくる奴、なんなんだっていう。囁くように言うもんだからやけに耳に残るし、楽するなよおまえ!って思う。しかもその役割何?むかつくけど少し面白い、それがまた癪にさわる。ややこい。

 

 

まだ夏日が残っていたり、かと思ったら雨降り冷え込みで体調も崩れやすいと思います。どうか健康に気をつけてお過ごしください。

 

植えて飢えた

森山直太朗YouTubeチャンネルにある「夏の終わり」のコメント欄に、「この歌、もし歌詞が”う”だけだとしても感動してる自信ある」ってあって、言い得て妙だなと思った。

ネタのようだけど本心でもあるような、実際、この曲の冒頭はファルセットによるハミングと三線とが重なり合って一つの音として鳴り響いている。それがこの曲の美しさを象徴しているし、それだけになっても、曲がもつ強さは変わらないような気がした。

 

チャンネルの3日前の投稿。

シングル「さくら(2020合唱)/最悪な春」の初回限定版に収録されている、Blue Note Tokyoでのライブ映像が、愛し君へ〜すぐそこにNEW DAYS〜最悪な春の順でダイジェストとして公開されている。

曲だけじゃなく、ステージに立つ表現者としての森山直太朗さんのサービス精神や魅力も十二分に映し出されていて、ダイジェストでもぐっと感動してしまった。

 

もう一つのチャンネル「森山直太朗のにっぽん百歌」にある、「レスター」という曲もとても好きで、折に触れて聞き返している。

他にも「人間の森」「群青」「金色の空」「虹」「日々」等、いつ聞いてもはっと目がさめたり、とても深い落ち着きをくれたりもする、そんな曲が数多くある。

どこかシュールで力が抜けているような、それでいて物事の芯をとらえていて、時に辛辣でさえもする、そんなのが同居する詩が素晴らしい。御徒町凧さんとの仕事。

 

 

あと、詩つながりで最近、谷川俊太郎さんのこの詩がよかったので掲載しておきます。

 

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言葉のたわむれ


飢えて
植えた

植えて
飢えた

飢えには植えがある
植えには飢えがある

 

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金曜の夕方、渋谷駅ハチ公前で待ち合わせの人ごみの中、同じように人を待っている時に読んでいた詩集の中に、この一編があった。

隙間なく埋まった花壇、壁沿いにも等間隔で人、互いに互いを「いっぱいいるなー」の視線でくぐりぬける。別にどうってことはないけれど、この音と意味の遊びに、なんか気持ちが軽くなった。

 

いつになっても、どこまでいっても言葉だ。

手を合わせて救われたい気持ちや、喜びにあふれて握手するその時も、言葉がある。

いつか実感をもって、誰かを幸せにするようなそんな言葉を贈りたい。

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買ったもの、観たもの。

ここ一週間で観た映画、買った本。

 

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「フリー・ガイ」

面白い映画だった。すごく楽しい気分にさせてくれる。

そしてなんといっても、「トゥルーマン・ショー」に対するリスペクトをそこかしこで感じられて、そこが一番ぐっとくるポイントだった。

敬愛しているジム・キャリー、繰り返し観ている大好きな作品なので、いまあの作品を思い返す機会があったことが嬉しい。

最初から最後までノリが大アメリカ映画。

 

ダウンサイズ

マット・デイモン主演というだけでそそられる。

人類の未来のために、サイズを小さくしてしまえば資源や食料問題を解決できる、といったテーマもなんだか面白そう。予告を見ていた感じでは、社会的なテーマを扱いつつも、全体的な空気感はコメディ仕立てのようで、肩の力を抜いて鑑賞できそうだった。

だがしかし終盤の展開によって着地は少し重め。

 

「ガンズ・アキンボ」

ダニエル・ラドクリフ主演。突然両手が拳銃化してしまったオタクが殺し合いゲームに無理やり参加させられる、なんともB級絶好調な作品。

ハリーポッターと共に育ってきた世代としては、”ハリー”以降のラドクリフくんの作品は定期的にチェックしてきたわけで、手品を否定する悪の科学者を演じた「グランド・イリュージョン 見破られたトリック」、摩訶不思議な死体の「スイス・アーミーマン」、脱獄する活動家「プリズン・エスケープ 脱出への10の鍵」、どれもこれも変わった役で記憶に残る作品だった。

でも、”ハリー”だった頃はそんなに惹かれる存在ではなく、むしろ隣にいた”ロン”役のルパート・グリントのほうが好きだった。それがいつしか、強烈に取り憑いたイメージを払拭するかのごとく、毎回変な役ばっかり演じている彼の活動を見ていて、いつしかファンになっていた。今回の作品も、ヒゲもじゃもじゃで、堕落した生活に汚い言葉、加えて情けない性格、どれもこれも面白要素で楽しませてくれる。

 

 

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「虚空へ」

今年で90歳になる谷川俊太郎さんの最新の詩集。

息子の賢作さんのYouTubeチャンネルに時々出演していて、いまだ元気な姿で話しているのを見るとなんだか安心する。でもいつか終わりを迎える時がくる。

文字数の少なさや、えらぶ言葉の性格に、タイトルにある「虚空へ」というのが染み入ってくる。

カバー裏の装幀がかわいい。

 

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「A HASTE OF TANIKAWA」

こちらも谷川さん関連。50年以上、ずっと谷川俊太郎の詩集を海外翻訳しているウィリアム・I・エリオットさんの著書。

今まで翻訳した詩の中から25編を選び、それぞれの詩についてユーモアを交えながら紹介をしている本。まだ未読。

 

 

 

以上。

 

休みの日

9日ぶりの更新。

 

こんな天気がずっと続いたらいいのにって、そんなのんきなことを思いながら窓際の机でこれを書いています。


作業する部屋から玄関へ、窓を開け放しておくと風が通りぬけて心地いい。

洗濯したタオルケットが風になびいて揺れる。目の前にある、三階建ての家の人との目隠しシェードにもなっていい感じ。

 

先日発売されたBank Band「沿志奏逢4」に収録されている「休みの日」という曲を聴きながら、青色のMONSTERを飲みつつ、机の上にあるペンやらマーカーやらをざーっと手で退けて書く場所を確保。やるくせをつけないとやらないままに日は過ぎて、そのうちサボった自分を責めて、その叱責がまた、やり始めるハードルを高くしてしまうから厄介なもんで。なのでその連鎖を断ち切ろうと自分の尻を叩いています。

 

 

昨日、それまで描いていた絵を一旦全部スキャンしてデータ化しました。

おおよそ2ヶ月の間、他にやることもなく描き続けていた絵は整理してちゃんと数えたら145枚ありました。なかなか描いた。自分でその積み重ねてた束を見て驚いた。

ただ、その量をデータ化しようとした時にスキャナーはおろか、自分のパソコンさえ持っていないので、セブンイレブンiPhoneと絵を持っていって2時間、印刷機の前でずっとスキャン作業をしていました。しかも近所のとこでやるのはなんかちょっと気が引けたので、わざわざ自転車で普段は通り過ぎもしないセブンイレブンまで行って。

 

スキャンしたデータを移行している間、iPhoneは読み込み画面になっているので他の操作ができない。なので、目の前に貼り出されてあるチケットぴあの情報を一文字ずつゆっくり読みながら時間を過ごしました。

 

あとはトリミングして、実物となるべく差のないように色調整をして、気分がのればタイトルも付けて。そうしておけばとりあえずあとは控えておくだけでいいから、その作業も尻叩いてやらねば。

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本に囲まれることは

また今日も本を買ってしまった。

 

何気なく寄り道のつもりが、ふらーっと棚を眺めているうちについつい手が伸びてしまい、ついにはそのままレジまで持っていってしまう。出掛けた時よりいくらか重くなったバッグを肩にかけて、楽しみ反面、またこれで棚に入りきれない本が積まれていくのかと、ほとほと断捨離とは縁がない性格だなと思ったりもする。

 

今回買ったのは谷川俊太郎「コカコーラ・レッスン」、杉村恒「明治を伝えた手」、「ザ・サイエンスヴィジュアルシリーズ 光」の三冊。

 

 

谷川さんの詩集は、以前この記事でも散々紹介したように地道に集めていて。

特にこの「コカコーラ・レッスン」は、出版されたのが1980年なのだけど、谷川さん作品の中でいうと中期辺りで、一番脂がのっているんじゃないかってくらい言葉の使い方が面白い。一読するだけでは意味わからん哲学や宇宙観、クラシックにも造詣が深いからそこらへんの用語も混ざってきて、現代詩的振る舞いも多分に見せてくる。それでいてわかりやすいユーモアや、日常のささいな描写が簡潔に描かれてもいて、その言葉同士の絶妙な距離感とか組み合わせが、読んでいて刺激にあふれている。

思潮社の本の装幀も毎度素晴らしいので、棚に入れて背を眺めているだけでも幸せを感じることができる。

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「明治を伝えた手」は、相撲字や木版彫師といった伝統芸の職人を紹介する本で、年々後継する人がいなくなり絶滅危惧になりつつあるモノやコト、その制作する現場の様子を写真付きで掲載している。

民芸や工芸への興味があるのと、そもそも母方の祖父母の家で暮らしていた頃は、よく祖父が離れで竹とんぼや凧などを作っているのを身近にしていたのもあると思う。

時々「お前も作ってみろ」なんて呼ばれて、言われるがままに竹を削ったり組み合わせたりしていたけど、正直あの頃はピンときていなかった。

そんなことが今更になり、ようやっとその魅力に気づき始めるなんて、なんて勝手なものだろうと思ったりする。直接伝えられる時に伝えておけばよかったことが、歳をとればとるほど増えていくってのはどうにも慣れない。まあ、そんなことも考えながら選んだ本。

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「ザ・サイエンスヴィジュアルシリーズ」は、電気、エネルギー、磁気、といったように毎回一つのテーマに絞り、それに対して多角的に画像を用いてわかりやすく解説してくれる図鑑的な本で。こういう化学や物理学系の本は条件反射的に手に取ってしまう。文章をちゃんと読まなくても、掲載している色んな図を見ているだけで楽しい気分になる。視覚トリックや心理学の本も同じ理由で好きだ。

反応と、その仕組みに興味があるのかも。

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本は、レコードやカセットみたいに、その魅力が度々見直され、ファッションアイテムのように取り扱われることはない。雑誌で定期的に特集は組まれるし、コロナ時代にあってその需要は高まっているらしい。けれど、物としての重さや、場所をとることから決してスマートではないし、電子書籍化が進むことで「いずれ無くなるメディア」といまだ言われ続けている。でもそんな存在ゆえに愛着が湧くし、こんなに情報と感情が一体化した物体、他にないぞ、とも思う。

 

新しく本を買って、家の棚に入れた瞬間に棚がそれまでと違う表情をみせる。本を入れ替えて整理すると部屋全体の雰囲気も変わるし、その時々の自分のテンションを反映する鏡にもなる。

バッグに入れて持ち歩けば、そのうちに角が潰れたり、表面に傷がついたりするのもいい。わざとそうする必要はないけれど、汚れれば汚れるだけ、本はその人にとっての本となって輝く。近年は転売も視野に入れて購入する人が増えたから、状態の良い本が多く、それはある意味では良いことなんだろうけど、でもそれ故に、誰のものでもないまま、市場を転々としていくだけの存在になってしまうつまらなさもあると思う。

 

 

こうして書いていると、また本が欲しくなってくる。

古本屋を覗けば店主のポリシーが感じられるし、思わぬ出会いが自分の好みを拡張してくれることだってある。新刊書店には時代が必要としている言葉や、書店員のしたたかな販売戦略が見え隠れしている。どちらも楽しい。

読まない本がまた積まれていく。

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(これは昔働いていた古本屋で撮った写真)