「今日は良い一日だった。」と、どこで思えるだろうか。
朝起きて陽の光を浴びて感じる最初の瞬間が、もうすでにその日一日を過去形にしてしまうほど素晴らしいものであれば、別段変な感想ではない。
カーテンの隙間、その何センチかの隙間が特別にしつらえたもののように感じる。ベッドに射す眩しさと埃の混じった空気、それを片手でかき混ぜてみる。
朝の水ほど命を感じるものはないと、きっとその時なら思える。
感じたままに書きたい。そう思って書き始めている。自分の中に蓄積された言葉じゃなくて、ただそこにあるものを言葉にして、データとして打ちこむ。絵もそう、詩もそう、なんでもそう。
ただそこにある、それをどのようにして感じるかは気分次第。作為的にならないように、俯瞰した自分自身を流れるように動かしてあげる。
最近は秦基博の『やわらかな午後に遅い朝食を』をリピートして聴いている。
今の自分にぴたっと合うし、文章を考えている時の呼吸というかリズム?テンポ?がこの上なく合致する。
(ああこんな繊細でいて伸びやかな声が出せたなら)なんていつも羨ましく思う。自分の歌声は張り上げるようにして感情を主張するからどうにもうるさい。
と、話が脱線したけど、昼にはなかなか「良い一日だった」と感じることは難しい。
それはなんでか。
少し考えたけど、きっとお腹が空いているからに違いない。起きてから今、今からその後の中間にある昼には体力をつけておくためにお腹が空くように身体ができている。
「良い一日だった」と満足する為には、その"足りなさ"があるままではいけない。
また、始まりでもない終わりでもない。
思うとしても「良い一日」ではなく「良い半日」になってしまうから、だから昼ではない。
じゃあやっぱり夜か。
朝から働いてクタクタになって、身体も疲労回復を願う眼でこっちを見つめる。
今日あった出来事を振り返って、人との会話中に至らなかった部分を反省してみる。
夜が包むなんて形容詞を口ずさんでみる。
くだらないLINEのスタンプラリーも、話題になっている事の真相にも耳を傾ける。
そういう意味のない、無駄な、取るに足らないことがあと何回自分にこなせるだろうかと物思いにふけることだって幾度となく。
なんせ夜はナルシシズムの時間だ。それが許される時間なんだ。
・ナルシシズム(独: Narzissmus、希: ναρκισσισμός、英: narcissism)あるいは自己愛とは、自己を愛したり、自己を性的な対象とみなす状態を言う[1]。オートセクシャル、メトロセクシャルなどの総称。転じて軽蔑の意味で使われることもある[1]。Wikipediaより
自己愛によって充足される時間ほど、贅沢なものはないし、誰だって形は様々あれどそういう時間を常に持ち抱え育てている。
夜でも昼でも朝でもない自分だけの特別枠で。
そんな自己愛がレベルアップするとき、表題にある言葉が口から漏れる。