父親からのアナウンス

「だいちゃーん」

そう言って頬を擦りつけようとする父親を「いいから!きもいから」と両手で押し返す。青髭のじょりじょりした感触と共に、自分の頬にもその物体が感染するようで嫌だった。押し返された父親は、冗談だよといった調子で笑う。まだ子供だったから、髭が生えてくる実感なんて持ち合わせていないし、単純に痛いからやめて欲しいのに、それでも会うたびに時間が巻き戻ってしまう。

今となれば、それが久しぶりに会う息子との、父親なりの唯一のコミュニケーションの取り方だったのかもしれない。

 

小学2年生の頃に両親が離婚して、そこから母親と弟と3人、母方の祖父母の家で一緒に暮らすようになった。それでも学校が長期休みのときは弟と2人、電車にのって富士市にある父親と祖母の家に泊まりに行っていた。

そもそも離婚する原因が父親の職場不倫だったし、そんな感じだからか父親と家で一緒に過ごした記憶がまるでなく、むしろ同居していた父方の祖父母や親戚の叔父さんたちによくしてもらった記憶のほうが強く残っている。遊びに連れていってもらったり、おもちゃを買ってもらったり、テレビを見ながら会話をしたり、そういった些細な出来事を共有してこなかったせいか、自分も自分で父親との距離感がずっと分からないままだった。

覚えているのはタバコの匂いで、1日に2箱以上消費するヘビースモーカーだった。

父親の運転する車はいつもヤニ臭かったし、吸う時も少ししか窓を開けないせいで煙が外に逃げず、車内に流れ込んでくるのでその度に注意していた。するとそう言われるのを待っていたみたいに、「おお、ごめんごめん」と軽く笑いながら半分まで窓を開けて満足そうに煙をくゆらせていた。むせながらもTシャツの裾を引っ張って顔にあて、自分の側の窓を全開にしてやっと落ちついた頃にはもう、父親は次のタバコに火をつけていた。

デパートに行っても10分に1回は喫煙所に行くし、当時は電話も持ってないからその間ずっと同じ場所で待ってないといけなくて、楽しかったというより、一応あそこ行ったなくらいの感覚だった。

おかげで、というか当然のようにタバコという存在が嫌いになって、一時期はいきすぎて喫煙者全般に嫌悪感抱くほどになっていた。(今でも自分が吸うことは考えられないけど、吸ってる人が近くにいても平気にはなった)

 

そうして小中高と、数こそ少ないながらも変わらず年に何回か会って一緒の時間を過ごすうち、父親に対して「なんてこの人は弱いのだろう」と思うようになった。それは憐れむでもなく、悲しむでもなく、父親というフィルターを外したときにあらわになった、ひとりの人間へ向けたまっすぐな感想だった。

5年前のある日、バイトの休憩中に知らない電話番号から連絡があった。

コールが鳴り終わってからネットで調べてみると、富士市にある不動産会社だった。

その名前に一切身に覚えはなかったけど、妙な感じがしてすぐにかけ直した。

すると「◯◯さん(父親の名前)の息子さんですか?」と尋ねられた。そうです、と答えて話を聞いていくと、どうやら父親名義で契約していたアパートの家賃が未払いになっていて、連絡しても返事が一向になく、様子を見に行ったらもぬけのからだったので、息子さん何か知りませんか?という内容だった。

あまりに唐突だったのでどういう感情になったらいいか分からず、ただ事実として「自分もここしばらくは父親と連絡をとっていないので何も知らないです。むしろ祖父母と一緒に暮らしていた実家を売りに出して、他のところに住んでたとこ自体も知らなかったです」と答えた。

手がかりだと思ってた息子がまさか他人の自分よりも情報が遅れていることに、あからさまに残念そうだった。こちらとしても色んな意味で残念な気持ちだったし、結局、もし何か父親から僕のほうに連絡があればすぐに教えますね、ということで電話は終わった。

 

電話帳を開いて父親の名前を探す。

見つけて通話をタッチ。すると、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」のアナウンス。念のためにもう一度かける。さっきと変わらず均等なトーンで、女性の音声が聞こえてくるだけだった。

起こることは起こる。そう言い聞かせながら、もうすぐ終わる休憩時間を思い出してバイトに戻った。

 

 

 

5年経った今でも連絡はおろか、どこでなにして生活しているのかさえ不明で、もしかしたら、、ってこともこの5年の中で何回か考えたけれど、考えたところで所詮辿り着けない迷路の入口。不動産会社からもあの日の一度きりだったし、半年に一回くらい連絡してくれる父親の弟からは「あいつにはもう関わらないほうがいいよ」と言われた。

その通りだと思う。虚しくも悲しくもない、お互い好きに生きましょうという気持ち。

あの頃は理解できなかった髭も、今では立派に生えるようになって、ずいぶん手入れに困っています。